(1)わかりにくい話
今日は、主イエスが百人隊長の僕をいやされた物語を読んでいただきました。この物語は一度読んだだけではなかなかわかりにくい話ではないでしょうか。みなさんの中には、「聖書はよく読んでいるつもりだけれども、この話はちょっと難しい」という方もおられるかも知れません。
百人隊長は、こう言っています。「わたしも権威のもとにある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば、来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(9節)。
これだけを読むと、私たちは、この百人隊長を「何と権威主義的な人間なのか」と思うかも知れません。自分の権威をふりかざして、自分の命令通りに部下が動くことを偉そうに、自慢しているように見えます。それにしてもこの百人隊長は、ここでどうしてこんな話をしたのか、一度読んだだけではなかなかわかりません。さらに、次の主イエスの言葉はどうでしょう。こういう風に記されています。「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』」(10節)。ベタほめです。主イエスは、どうしてこの偉そうにしているように見える百人隊長をほめられたのでしょうか。
(2)部下のためにプライドを捨てることのできる上司
それではもう一度最初から、このテキストを見てみましょう。「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、『主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます』と言った」(5-6節)。
最初に引用した百人隊長の言葉は、権威主義的で威張っているように見えると言いましたが、ここではそうではありません。この人は自分の僕のためにプライドを捨てて、主イエスの前に進み出て、懇願いたしました。ここでの社会状況を考えると、これは大変なことであったと思います。つまり、この物語の舞台であるカファルナウムは、ユダヤ人の町です。しかしローマ帝国によって支配されています。それでこの百人隊長はローマから遣わされた兵隊の小隊長として駐屯しているのです。そういう状況では弱さを見せてはならない。威張っていなければならないのが普通です。一方宗教的には、ユダヤ人たちは自分達の信仰に誇りを持ち、自分達を軍事的に支配しているローマ人をも逆に、異邦人として差別し、排除し、軽蔑しています。この百人隊長の場合もそうです。だからユダヤ人たちの前でプライドをふりかざしていないとやっていけないのではないでしょうか。戦時中の中国や朝鮮における日本軍の隊長のような存在を想像していただければよいと思います。
しかしこの百人隊長は、自分の部下、僕のために、一切のプライドを捨てて、主イエスの前に進み出て「自分の僕を助けてください」と懇願しました。この人は自分の部下のために頭を下げることのできる人でした。それだけでも、私はすばらしいと思います。なかなかそうはいきません。自分の部下を自分の仕事の道具のように考える人が多いものです。ましてや、この百人隊長自身が後で言っているように、軍隊のように規律の厳しい組織の中では特にそうでしょう。この人はそれだけ自分の僕を愛し、気にかけていたのでしょう。私はこういう上司をもった部下は幸せであると思います。この人は僕たちと心の通い合う関係を持っていたに違いありません。考えてみれば、それだからこそ一層部下の方も彼を信頼して何でも言うことを聞いたのかも知れません。
(3)主イエスはどこへでも出かけられる
この優しい謙虚な心に、主イエスは心を動かされたのでしょうか。「わたしが行っていやしてあげよう」(7節)と言われました。これも実は、普通では考えられない言葉です。当時のユダヤ人たちは、決して異邦人の家に入ろうとはしなかったからです。異邦人と交わると汚れると信じていたのです。ですから百人隊長の方も「うちへ来ていやしてください」とは言っていません。最初からそれはきっと無理だろうと思っていたのでしょう。「あなたであれば、何とかできます」という信頼だけです。
ところが主イエスは、他のユダヤ人と違って、異邦人の家でも徴税人の家でもどこへでも気安く赴かれました。本当に主イエスを必要としている人のところはどこへでも出かけられるのです。私たちを汚すのは、そういうことではないということを、よく知っておられたからです。かえって「来てもらって当たり前」と思われるようなところは、お訪ねになりませんでした。
(4)信仰の要所
ところが、この百人隊長は主イエスのせっかくの申し出を断り、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではございません。ただひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」(8節)と言いました。私はこの言葉の中には信仰の本質にかかわることが二つ語られていると思います。
ひとつは「自分は主イエスを迎えるにはふさわしくない人間である」ということです。先ほど言いましたように、自分は主イエスを迎える値打ちがあると思っている人のところへは、主イエスは来られません。あるいは満ち足りている人のところでは、主イエスの力は働かない。必要ないと思っているからです。自分にはその値打ちがないと思っているところ、心が空洞のように貧しくなっているところ、弱く貧しく小さくなっているところで初めて、主イエスの力は十分に働くのです。パウロも「わたしは弱いときにこそ強い」(第二コリント12:10)と言いました。これが信仰の逆説です。
しかし自分の弱さ、貧しさ、値打ちのなさを知るだけでは「自分はだめな人間だ」、「だめだ、だめだ」で、しょぼんとしてしまうだけで、意味がないでしょう。最後には自殺してしまうかも知れません。もう一つ大事なことは、そこに働く主イエスの力を信頼することです。自分の力ではなく、主イエスのたった一言で、すべてが解決する。彼は「一言で十分です。あなたの言葉にはそれだけの力があります」と言って、信頼しました。
そしてそう言った後で、最初に引用した話をしたのです。「わたしも権威のもとにある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば、来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(9節)。この話が言おうとしていることは、「権威ある言葉には力がある」ということではないでしょうか。それをこの百人隊長は、自分の身近な例を通して理解していました。軍隊という権威のもとでは、部下は上官の命令に絶対に従わなくてはなりません。ですから言われたとおりになるのです。権威のもとでは、一旦言葉が発せられると、その通りになる。いいですか、ここからが大事です。百人隊長はこう考えたのです。「私たち人間の権威でもそうなのであれば、ましてや神の権威をもった方の言葉であれば、どうしてその言葉の通りにならないはずがあろうか。必ずなる。」これが、この百人隊長が軍隊のたとえを引いて、言おうとしたことなのです。
「自分は信仰のことは知りません。あなたがたユダヤ人とは違います。異邦人です。しかしこの世の組織、この世の権威のことなら知っている。権威のもとでは、言葉は裏切らない。事柄は実現する。そこから想像すれば、神さまの権威をもった言葉が語られる時に、一体どんなことが起こるか、それ位のことはわかる。」私は、これはなかなかおもしろい論理であると思います。しかしその論理のおもしろさよりも、そこまで主イエスを信頼できたということが大きいと思います。イエス・キリストは、このことをほめられたのです。「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。
(5)言葉のインフレ
聖書とは、神の言葉が力をもつということ、その言葉の通りのことが実現するということを証しする書物です。神の言葉が語られる時、それは私たちを裏切ることはないということです。創世記の最初からそうです。神が「光あれ」と言われると、光が現れて、その通りになった、と書いてあります。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」。その言葉通りになりました。あるいはまた旧約聖書の預言者たちも皆、神の言葉に権威と力があることを証しするために遣わされたのでした。
現代は「言葉のインフレの時代」だと言われます。インフレというのは、経験してみないとなかなかぴんと来ないかも知れません。私は1991年から98年までブラジルで宣教師として働きましたが、最初ブラジルに着いたときはものすごいインフレの時代でした。月間インフレ率が20%、ひどい時は30%にもなりました。20%ということは月初めに100円であった物が、月末には120円になっているということです。店の人はすぐに値段を書き換えていかなければならない。大体月に二回くらい書き換えています。買う方はいろいろ比べて、できるだけ安いところ、つまり値段を書き換える前の店をねらって買い物をします。買った後でも、他の店で値段を見ない。つい見てしまうのですが、見ない方がいい。自分が買ったのより安いのがあると、精神衛生上悪いからです。
インフレというのは、私も難しいことはよくわかりませんが、おおざっぱに言えば、適正量以上にお金が出回り、お金の価値が下がってしまう。そしてお金が信用されなくなる。それでまたお金を発行する。その悪循環ということではないでしょうか。
「言葉のインフレ」というのは、それと似たようなことが言葉の世界でも起こっているということです。今日の世界は、無数の出版物、テレビ、ラジオ、インターネット、ホームページなどにおいて、言葉が氾濫しています。そうした中、「言葉」は情報と同様、「使い捨て」のものになってしまいました。それでどの言葉が果たして有益なのか。どの言葉を信頼していいのかわからない。言葉の価値、言葉の権威が失墜してしまうことです。言葉が信じられない時代にあって、聖書は「真実な言葉」が存在すること、私たちを裏切らない言葉が存在することを告げるのです。そしてこの2000年の歴史がそれを証ししています。
(6)逆転
主イエスは、誰もが「まさか」と思うところで大きな信仰を発見されました。そして自分達こそ神の国の相続人だと称していばっているユダヤ人に対しては、厳しいことを言われました。「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(11-12節)。信仰の逆転が起こるのです。私たちはこの主イエスの言葉を、ただユダヤ人にあてはめて、「だからユダヤ人は退けられて、異邦人の間にキリスト教が広まった。めでたし、めでたし」と読むのでは意味がないと思います。現代のクリスチャンも「洗礼を受けた人だけが天国へ行く」などと思っていたら、こうした逆転もありうるということを、心にとめておかなければならないと思います。
(7)とりなし
主イエスが百人隊長に、「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように」と力ある言葉がかけられると、不思議なことに遠く離れたところにいる僕の病気はいやされました。主イエスの言葉通りになったのです。
私たちは最後に、この僕のいやしが僕自身の信仰によってではなく、百人隊長の信仰によって引き起こされたことを覚えたいと思います。「とりなし」ということです。私たちが他の人の悩み苦しみのために真剣に祈る時、その本人が信仰をもっていようとなかろうと、主はその祈りをきいてくださるということです。
私たちは信仰をもたない人に取り囲まれて生きています。特に日本においてはそうです。家族、友人、職場の人、学校の人。その人たちにキリストのわざと言葉を伝えて伝道することは大事なことです。ただし必ずしも、それが伝わるとは限りません。しかしそれでもなお、私たちの祈りはきかれるのです。私たちが誰かのことを思って真剣に祈るときに、神さまはその祈りをきいてくださって、その人の上に働いてくださる。このことは、私たちにとって大きな慰めであり、励ましではないでしょうか。まことの権威をもったお方、神の権威をもったお方、神と等しいお方であるイエス・キリストを信頼して、今週も歩み始めたいと思います。