2006・3・26

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「生きるにも死ぬにも」

村上 伸

歴代誌下36,11-16フィリピの信徒への手紙1,15-21

先週、鈴木良衛さんが天に召された。今年に入ってから立て続けに二人の兄弟を送って、流石に淋しい思いをしている。しかし、この二人は高齢でもあったし(原田敬造さんは86歳、鈴木良衛さんは83歳)、召されるまでの数年間は病気で入退院を繰り返していたから、ある程度覚悟はできていた。何度か病床を訪ねて祈ることもできたし、二人と一緒に迫ってくる死を自然のこととして受け入れることもできたと思う。そういうこともあって、今日は死の問題について語りたい。

生命あるものはいつか必ず死ぬ。それは一つの自然現象である。だが、自然に逆らうような仕方で訪れる死というものもある。幼子の死。これほど辛く、悲しいことはない。思いがけなく訪れる突然の死。これも胸を騒がせる。

先日ドイツに行った折、20年ぶりに何人かの旧友と懐かしい再会をした。三泊四日のシンポジウムだったが、昼間はさまざまな講演を聞いて討論し、夜はワインを飲んだりしながら旧交を温めた。共通の友人について、「彼は今どうしてる?」と訊ねたり、「あいつはまだ元気だよ」と消息を伝えたり、話が途絶えるということがなかった。その内に、ふと、シュトウットガルト時代に同僚だった有能な女性ジャーナリストのことを思い出し、彼女は今何をしているかと聞いてみた。すると、事故で死んだと言う。楽しい語り合いの最中だっただけに、私は不意打ちを食らったようにしばらく呆然としていた。もう十年も前のことだったと思うが、ドイツの新幹線(ICE)が大きな脱線転覆事故を起こして100人以上の死者を出したことがある。その列車に、偶然、彼女も乗り合わせていたというのである。時速300kmという高速で疾走している列車の事故だから、ほんの一瞬のことだったろうが、それにしてもどんなに恐ろしかったろうと想像する。突然襲って来る死は恐ろしい。

ところで、パウロも手紙の中でしばしば死の問題に触れている。彼の場合は頭で考えたというのではなく、体で死の危険を体験したのである。2コリント1章8-9節には、「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みを失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」とある。これは、彼の実際の体験だったのである。

今日のテキストである『フィリピの信徒への手紙』は、獄中で書かれたと言われる。1章7節; 13節; 17節などがそれを裏づけている。その牢屋がどこにあったかは、確かではない。ある人はローマだろうといい、他の人はエフェソではないかという。どこであったにせよ、古代にあっては、今日の民主国家のように法体系がまだ整備されていなかったから、権力によって投獄されたりすれば、何が起こるか知れたものではなかった。獄中生活は死の恐怖と隣り合わせだった。洗礼者ヨハネは、王妃ヘロデヤの不興を買って投獄され、獄中で首を切られたではないか。パウロにも同じような危険がなかったとは言えない。

だが、この手紙からはいかなる意味でも恐怖は感じられない。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い…」(20節)とあるように、近く死ぬかも知れないということが分かっていても、彼はうろたえない。むしろ、「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方が遥かに望ましい」(23節)とさえ言っている。既に「生死を超越して」いるようにも見える。彼のこの落ち着きはどこから来たのか?「死生一如」という悟りによって得られた境地なのだろうか?

日本では古来、特に武士の間では、死の問題と絶えず直面することによってその恐怖を克服すること、つまり、「死生一如」という境地に達することが理想とされていた。そのために、武士の家に生まれた子は、幼い頃から切腹の作法を教えられた。「武士道とは死ぬことと見つけたり」(『葉隠』)という言葉は、このような思想の代表であろう。この思想を実践に移した衝撃的な実例が、三島由紀夫の割腹自殺であった。

私自身も少年時代に日本陸軍の将校を養成する学校で教育を受けたから、このことを絶えず叩き込まれた。だが、実際に切腹を覚悟しなければならなくなったとき――実はデマだったのだが――口先で「強がり」を言ってもダメだということを思い知らされた。死の恐怖は本能的なもので、そんなに簡単には克服できないのである。

パウロの場合も、恐怖がなかったとは言えない。だが、彼はいつも一人の人のことを考えていた。イエスである。十字架につけられて殺された方。この方は、死の運命がもはや避け難いと分かったとき、伝えられている日本の武士たちのように「泰然自若」としてはいなかった。むしろ、「ひどく恐れてもだえ始めた」という(マルコ14章33節)。そして、弟子たちに向かって率直に「わたしは死ぬばかりに悲しい」34節)と告白し、その後で、「この杯をわたしから取りのけてください」36節)と三度も神に祈った。最後は十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」15章34節)と叫んで息絶えたという。

ここにあるのは、死を前にしてありのままの姿をさらけ出した人の姿である。この方は恐怖に戦き、悶え、悩み、惑乱する。とても「格好良い」とは言えない。だが、私たちは本来、「良い所を見せよう」などと「格好をつける」必要はないのだ。神はありのままの私たちを受け入れて下さる。だから、弱いなら弱い、怖いなら怖いと、神の前では「ありのまま」をさらけ出してもいい。神と人との間にはそのような信頼関係があるということを、主イエスはご自分の苦難を通して示されたのだ。

パウロは、この主イエスによって、逆に恐怖から解放されたのではなかったか。


礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる