今日読んだマタイ福音書17章には、「山上の変貌」と呼ばれる不思議な出来事が記されている。主イエスが3人の弟子を連れて高い山に登ったとき、「その姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)というのである。一体、この記事は何を私たちに語りかけているのだろうか。
今日のテキストには、この謎を解く鍵になるような言葉がいくつかある。
最初の鍵は、イエスがその時、「ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて」(1節)いた、という言葉である。よく知られているように、イエスは大勢の弟子の中から12人の使徒を選んだが、その名簿の真っ先に出てくるのがペトロとヤコブとヨハネだ(10章2節)。ここからも、この3人がイエスの宣教活動を支える重要な役割を担っていたことが察せられる。十字架の直前、イエスがゲッセマネの園で夜を徹して祈られた時も (26章36節以下)、彼らは傍にいた。もっとも、その時は不覚にも眠り込んでいたが。ともあれ、この3人はイエスにとって決定的に重要な場ではいつも傍にいた。「山上の変貌」もその一つだ、とマタイは言っているのである。
次の鍵は、イエスが「高い山に登られた」(1節)ということであろう。日本でも、古来、比叡山・高野山・羽黒山などの高い山には霊気が満ちていると信じられた。山に登るのは神に近づくためであった。イスラエルでも同様で、出エジプト記によればモーセはシナイ山の上で神から「十戒」を授けられた(19章)。列王記上19章は、預言者エリヤが「神の山ホレブ」で神の決定的な声を聞いたと記している。イエスが高い山に登られたのも、直接に神の言葉を聞いて自らの使命を自覚するためであった。
そして、今日のテキストを解く三つ目の鍵は、ほかでもない、その「モーセとエリヤが現われた」(3)という一節だ。この2人は、旧約聖書を代表する重要人物である。モーセはシナイ山で神(ヤハウエ)と出会い、エジプトで奴隷にされている同胞を解放する使命を与えられるが、その時、神はご自身の本質を、「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節) と明かされた。マルチン・ブーバーによれば、それは「どこであれ、お前がいるところ、たとえそれが絶望のどん底であっても、私はお前と一緒にいる」という意味だという。この神がイスラエル民族を選んで契約を結び、その徴として律法を与え、モーセはイスラエル民族を代表してそれを受けた。だから彼こそは、神がこの民と結ばれた契約の最大の証人である。
他方、エリヤは北王国アハブ王の治世(紀元前869〜845年)に活動したイスラエル初期の代表的な預言者である。その頃、王妃イゼベルが「バアル礼拝」にハマり、その影響でアハブ王はこの異教礼拝を全国的に取り入れようとした。エリヤは権力者のこの堕落に抗議し、全力でヤハウエ(神)への信仰を守ろうとしたが、結局、孤立する。独りで砂漠に逃げ、一本のエニシダの木の下にへたり込んで、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」(列王記上19章4節)と泣き言を洩らす。メンデルスゾーンの聖譚曲『エリヤ』の有名な場面だ。その絶望のドン底で天使が現れ、パンと水を与えて彼を支える。「その食べ物に力づけられた彼は、40日40夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」(8節)。その高い山の上で、エリヤは神の声を聞くのである。お前は決して見捨てられてはいない! それは、風や地震や火の中から激しく響く言葉ではなく、「静かにささやくような」声であった。それだけに、一層心に沁みた。
この「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」(3節)というのである。これは、モーセに現れたのと同じ神、エリヤに現れたのと同じ神、つまり、「どんな絶望のどん底でも私はお前と一緒にいる。私は決してお前を見捨てない」と約束された神が、イエスの神でもあるということだ。実に、そのことによってイエスの「顔が太陽のように輝いた」(2節)のである。
最近のコマーシャルは、女性の顔は上質の化粧クリームを塗ることによって輝く、と歌うような調子で宣伝する。だが、本当の輝きは内面からしか来ない。深い喜びや高揚感を味わったときにだけ、人の顔は内側から輝くのだ。
クリスマスに教会学校の子供たちが「ゲハヂ」という劇を上演した。大学生から幼稚園児までの混成劇団であったが、中々の出来だった。終わって一人ひとりが紹介された時、子供たちの顔は実に輝いていた。その輝きは、困難な課題をやってのけたときの満足感、あるいは、大人たちがそれを見て喜んでくれたという誇りから生じたものであろう。これは素晴らしい。
だが、イエスの顔が輝いたのは、それとも違う。それは神の約束を受けたことによる輝きである。さっき朗読した出エジプト記34章には、「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった」(29節) とある。モーセは十戒を受け取った時、神の約束の光に照らされてそれを反射したのである。
マタイ福音書は、至る所でイエスをモーセとなぞらえているが、それは単にこの二人が「似ている」と言うためではない。イエスはモーセを超えているのである。『山上の説教』を読めば、この点は明らかだ。例えば、モーセ律法では「目には目を、歯には歯を」という同害復讐が命じられていたが、イエスは復讐そのものを禁じ、敵を愛することを命じた。ここにしか世界の将来はない。だから、天からの声はこう言ったのである。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5)。
イエスの顔が太陽のように輝いたことの意味は、ここにあったのである。