2006・1・29

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「罪と恵み」

廣石 望

ホセア書6,4-6ローマ5,12-21

I

 テレビ新聞等で、ライブドア社の幹部が不正な株取引を行っていたことが連日とりあげられています。その合間に、とある系列ホテルの社長が、条例で定められた身体障害者用の駐車場スペースを、工事の最終段階で一般客用のロビースペースにすり変えたという報道もありました。これらの報道を通して、一連の隠されたメッセージが私たちのもとに届けられている気がします。例えば、「法律に違反しないこと(あるいは露見しないこと)は罪に当たらない」「人の心は金で買える」「人間とは生まれつき悪いことをするものであり、法律はそれを押しとどめる役割はあるが、最終的には道義的な責任について云々しても仕方がない」といったメッセージです。

 これらの隠されたメッセージは、「罪」とは何か、私たちがそれをどう理解しているかを知る上で、たいへん参考になります。私たちの理解をパウロの発言と比較対照しながら、「罪」と「恵み」の関係について考えてみましょう。

II

「法律に違反しないことは罪でない」というとき、「罪」とはひたすら法律との関係でのみ理解されています。「人の心は金で買える」というとき、「罪」を含めたすべての現実は、私が行動を通して生産し、操作できるものです。「金」とは私の行動能力のシンボルだからです。そして「人は生まれつき悪い」という発言では、「罪」は人類の避けがたい運命と見なされています。要するに「罪」を法律から理解するとき、それは法律違反であり、そのとき人は自分自身の行動の産物です。そして行為の産物としての「罪」とは、人間につきものの、ほどほどにセーブできればそれでよしとすべき、平凡な現象に過ぎません。

 しかしパウロは、こうした私たちの理解に合致しない発言を、そこかしこで行っています。彼は「すべての人は罪を犯した」(12節)と言います。しかし、そもそも法律というものは、それに違反しないで生きることは可能だ、という前提から出発しています。万人をあらかじめ罪に定める法律というものはありません。ですから、「すべての人は罪を犯した」という発言は、多くの人の反発を買います。しかしよく考えるとパウロは、「罪」は法律から理解するだけでは足りない、と思っているようです。彼は、「律法が与えられる前にも罪は世にあった」(13節)と言います。法律や律法には、「罪」の本当の姿を定義する力量がないのです。

次にパウロは、「罪によって死が入りこみ、死がすべての人に及んだ」(12節)、「アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配した」(14節)と言います。「罪」を含めてあらゆる現実を私たちの行動の産物と考える人にとって、この発言は意味不明です。あらゆる現実の創造者である〈私〉の「死」が語られているからです。パウロは何を考えているのでしょうか。「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だった」(14節)という発言が、そのヒントになります。「来るべき方」とはイエス・キリストのことです。パウロは、アダム(人間)を、つまり究極的には自分自身を、イエス・キリストにおいて示された神の恵みの光の下で見つめなおしています。そのとき初めて、彼は自分を支配しているものを「死」と呼ぶことができるようになりました。

パウロは『フィリピの信徒への手紙』で自分の個人史を振り返りつつ、ファリサイ派のユダヤ人として自分は「律法の義については非のうちどころのない者」だったと言います(フィリピ3,6)。そして直ちに続けて、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった」(同7節)とも。パウロは、神の律法に照らせば「非のうちどころのない者」であった自分自身を、キリストの光の下で、「損失」に向かって生きる者、「死」に支配された者として再発見したのです。「罪」を律法によって定義できないという洞察は、キリストと出会うことによって初めてパウロに与えられたものです。

III

さて、キリストの出来事を一言で表現するのが「恵み」という言葉です。もっとも、法律ないし律法から理解された「恵み」もあります。それは例外的なお目こぼしです。

元来、正義の裁きとは冷徹なまでに厳格なものです。「裁きの場合は、ひとつの罪でも有罪の判決が下される」(16節)とある通りです。厳正な「裁き」においては、既に手元にあるものだけが判断の材料になります。私たちは、あるがままの姿で測定されます。しかし、その厳正さを少しだけ緩めることがあるとすれば、それが法律の枠内での「恵み」です。刑事裁判において、「情状酌量」が考慮されることも参考になるでしょう。律法から理解するとき、「恵み」とは例外的なお情け、あるいは足りない部分の下駄はかせです。

しかしパウロは、「恵みの賜物は罪とは比較になりません」(15節)と言います。「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」(16節)とも。ここにいう「恵み」とは、法律の枠内における単なるお目こぼしではありません。それはむしろ、私が自ら作り出した現実を測定する「裁き」とは、クォリティにおいてまったく異なる働きです。

IV

では、法律ないし律法からでなく、「恵み」そのものから理解された「恵み」とは、いったい何でしょうか?

「恵み」という言葉を聞いて最初に思い浮かぶのは、必要を遥かに超える豊穣さです。ちょうど、イエスが荒野で何千人もの人々にありあまるほどの食べ物を与えたように。パウロもまた、「神の恵みと・・・イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれる」(15節)と言います。「豊かに注がれる」と訳された箇所のギリシア語は、「満ち溢れる」という意味です。

さらに「恵み」とは、私の業績に対する正当な報いを遥かに超える賜物です。15-19節の発言に特徴的なのは、〈アダム一人の罪が多くの者に死をもたらしたが、キリスト一人の恵みは、なおさら多くの人々に溢れんばかりの命をもたらした〉という意味関連です。「なおさら…溢れんばかりの」という表現が、当然あるべき尺度を遥かに超えるという恵みの特徴を示唆しています。

キリストにおいて自らを示した神は、ひたすら命を与える神です。その光の下に現われる人間とは、「すべての人が義とされて命を得る」(18節)とあるように、新しい存在を受けとる者です。「恵み」とは、私たちの努力不足を補うお目こぼしではありません。むしろ、まったく新しい存在を与えられることです。この点から見て初めて、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました」(20節)という、スキャンダラスな発言の意味も理解できます。すなわち圧倒的な恵みを体験した者だけが、人を行動者・自分自身の創造者という位置に固定する律法を、つまり人が神の前で徹底的に受けとる者であるという認識を曇らせる律法を、「罪が増し加わるため」に入り込んできたものと見ることができるのです。

V

ここで、「罪」とは何かという最初の問いに戻りましょう。今や「罪」を定義できるのは、「律法」でなく、律法的に理解された「恵み」でもなく、キリストにおいて示された「恵み」から理解された「恵み」だけです。

「恵み」から理解された「罪」は、いろいろな姿をとるだろうと思います。今日のテキストで、それに当たるのは「不従順」(19節)という言葉です。原語であるギリシア語の「パラコエー」は、「聞き流してまともにとりあおうとしないこと」「聞く耳を持とうとしないこと」を意味します。これが「恵み」から理解された「罪」です。

皆さんは、イエスの「放蕩息子」の譬をおぼえておられるでしょう。この譬えの父親は、いったんは財産を与えて分家した弟息子を、あろうことかもう一度家に入れたばかりか、盛大な宴会まで開いてしまい、兄息子から拒絶されてしまいます。家の秩序という「法律」から見れば、兄息子が正しいのです。父親も、弟息子が帰郷するまでは、厳格な家父長でした。しかし、当然あるべき尺度を遥かに超える恵みの出来事、つまり帰郷の祝宴を自ら体現してしまった父親にすれば、怒る兄息子に優しく語りかけるほかありませんでした。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返ったのだ……。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15,31-32)。――この呼びかけに対して聞く耳を持つか持たないか、これが問題なのです。

興味深いことに、パウロによれば「一人の人」つまりキリストの「従順」は、神に対する従順ないし服従を私たちに要求するものではありません。そうではなく、「多くの人が正しい者とされること」、つまり神との生きた関係を私たちに可能にしました。それは放蕩息子の譬えの兄息子が、父との新しい生きた関係に招かれているのと同様です。

私たちも、たとえどんなに厳しい現実の中を生きていようとも、その当然あるべき尺度を遥かに超える恵みへと招かれています。これは強制ではありません。いつだって拒絶できます。この拒絶を裁く法律はありません。「罪」とはそのような柔らかい拒絶のことです。しかし裏切られた信頼関係ほど、私たちが生きながらにして経験する「死」はありません。無条件の赦しや愛情をはねつけるとは、何と痛々しく、それこそ「罪」なことでしょう。

「罪」と「恵み」とは、単に法律に違反するか否かといった問題と比較すれば遥かに繊細な、そして遥かに根源的な、神と人の前で生きる姿勢そのものに関わる選択なのです。


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