2006・1・22

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「十字架につけられたキリスト」

村上 伸

イザヤ書53,1-5コリント第一 2,1-5

ヤコブ書に、「舌を制御できる人は一人もいない」3章8節)とあるように、私たちの言葉には常に誘惑がつきまとう。つい自分の知識をひけらかしたりする。それによって、あたかも話の内容に重みや信頼性が加わるかのようである。

今日の所で、パウロは「わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」(1節)と言っているが、もしかしたら彼もその時、一瞬、「優れた言葉や知恵を用いる」やり方で語ったほうが説得的だと考えたのかもしれない。何しろ、当時彼が滞在していたコリントはギリシャ有数の文化都市であるし、しかも、「ギリシャ人は知恵を探す」(1章22節)と一般に言われていたように、「知恵」に絶大な価値を置く知識人が周りに満ちていたからである。

しかし、パウロはこの誘惑をキッパリと斥けた。何故か? 人間的な誇りというものは、いかなる種類のものであれ、結局、良い結果はもたらさないということを、彼は痛切に体験していたからである。

彼は生まれて八日目に割礼を受けた生粋のユダヤ人であった。極めて熱心なファリサイ派の一員で、「律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ3章6節)であると自らを誇っていた。この誇りのゆえに、彼は新たに出現したキリスト教なる宗教に我慢がならず、使徒言行録9章によると、信徒たちを「脅迫し、殺そうと意気込んで」1節)ダマスコへ向かった。その途中、突然、天からの光が彼の周りを照らし、彼は地面に倒れる。そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(4節)と呼びかける声を聞くのである。

この時、彼は一瞬にして悟ったのだ。ああ、自分は今まで一体、何をして来たのか? 自分が誇りとしていた律法は他者を真に生かす力とはならず、むしろ、他者を殺す結果となっただけではないか。これが、名高い「ダマスコ途上の回心」である。

彼はこの時、心の底から悟ったのだ。知恵であれ、律法の義であれ、何であれ、自分の所有するものを誇ることは、人間関係を決して美しくはしないということを。逆に彼の心は、それまで「何と愚かな言葉か」と軽蔑していた「十字架の言葉」(1章18節)に強く惹かれたのである。

そもそも十字架とは、ローマ帝国で奴隷の反乱を防ぐために考案された死刑の方法であった。犯罪人の手と足を、十字の形に組んだ木材に太い釘で打ちつけ、それを垂直に立てる。全身の重みが手足の傷口にかかる。しかし、出血は僅かだから中々死ねない。長時間苦しみ悶えながら次第に衰弱して行く。犯罪人は無様な姿を人前に晒さねばならない。これは「見せしめ」のために絶大な効果を発揮したに違いない。

特に、「木にかけられた者は呪われる」と信じていたユダヤ人にとっては、十字架は屈辱以外の何物でもなかった。それなのに、キリスト教徒は「十字架にかけられた救い主」などと言う。なんと愚かな言葉か! 救い主が十字架にかけられるなど、あってはならない話だし、それ自体、形容矛盾だ。これが普通の感覚であって、以前はパウロもそう考えていたのである。その彼が、「十字架の言葉」の中に潜む逆説的な真理に気づかされたのは、どういうわけだろうか?

柳沢桂子さんという生命科学者のことは、前にも話したことがある。研究者としてやっと世に認められ始めた1970年代に、彼女は原因不明の奇病に襲われる。医者にも匙を投げられ、言葉に尽くせぬほどの苦しみが心身に重なって、彼女は一時自殺さえ考えたという。その頃、彼女はボンヘッファーの言葉と出会った。「神という作業仮設なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前に、神と共に、われわれは神なしに生きる」(『獄中書簡集』417頁)。不思議なことに、この言葉が彼女を深く慰め、支えたという。

この言葉は難解で、その解釈を巡っては研究会でもしばしば議論になる。しかし私には、「神の前に、神と共に、神なしに生きる」というこの言葉は、要するにイエスを指し示していると思われてならない。イエスは「神の前に」歩み、「神と共に」生きた。だが、最後は十字架につけられて、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」マルコ15章34節)と叫んで死んだ。神の子であるイエスが、神に見捨てられたと感じるほどの恥と苦しみと絶望を経験したのである。その時、彼は確かに「神なしに」生きていた。神の前に、神と共に生きたイエスが、神の不在を感じて苦しまねばならなかった! 聖書の神はこのような苦しみを知り給う。正にこのことが、絶望のどん底にいる人を慰めるのである。

詩編139編8-9節を、私の大好きな文語訳で読みたい。「われ天にのぼるとも汝かしこにいまし、われわが床を陰府に設くるとも、見よ汝かしこにいます。われあけぼのの翼を借りて海の果てに住むとも、かしこにて尚汝の御手われを導き、汝の右の御手われを保ち給わん」。

今日読んだイザヤ書53章も、苦しむ救い主を暗示している。ひたすらイエスに注目していたボンヘッファーがあのような言葉を残したのは、むしろ当然であろう。

パウロはこの逆説的な真理に目覚めた。それからは、もっぱら「十字架につけられたキリスト」(1章23節)を宣べ伝えるようになった。「わたしは、あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(2章2節)。これによって彼は、どんなに「衰弱し・・・恐れに取りつかれ、ひどく不安」3節)な時も、神の力によって立つことができたのである。


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