「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(16-18節)。これは多くのキリスト者の座右の銘として愛唱される聖句だが、この言葉を聞いて「いささか調子が良すぎるのではないか」と疑問を抱く人も多いのではないか。「調子が良すぎる」というよりも、この頃の言い方では「ノーテンキ」だ。これを『広辞苑』で調べてみた。「能天気」、あるいは「脳天気」と書くらしい。その意味は、「物事を深く考えないさま」、もしくは「軽薄で向こう見ずなさま」だという。
今の世界は深刻な問題に満ちていて、心の晴れる暇がない。それなのに「いつも喜んでいなさい」とか「どんなことにも感謝しなさい」と言われても、反発を感じるだけではないか。それを「能天気」と感じる人がいても、別に不思議ではない。
先週、『朝日新聞』に日本の青少年に関する気がかりな数字が紹介されていた。2000年の統計では、中高生の62%が「21世紀は希望に満ちた社会にはならない」と感じている。小・中学生の30%は「自分なんか存在しない方が良い」と思っている。小学2年生の40%は、絶えずイライラしている。2004年の統計では、児童殺しが年間181件起こり、児童虐待についての相談は3万件に及んだ、というのである。
元高校教師の水谷修さんは、夜の盛り場で子供たちに声をかける取り組みを続けて「夜回り先生」と呼ばれる人物だが、彼の所には毎日数十件の相談メールが届く。その経験から、彼はこう指摘している。「91年にバブルがはじけてから、日本の社会は物凄く攻撃的でイライラしている。ゆとりとか優しさがなくなってきている。そこで泣いているのは一番弱い人間、子供ですよ」。そして、これは「小泉内閣になってからこの4年間、めちゃくちゃひどくなった」と言う(1月12日の『毎日新聞』)。
本来なら希望に満ちている筈の青少年が、自分と世界の将来に明るい希望を持てないでいる。そういう状況なのに、「いつも喜んで」いることなどできるだろうか? 「どんなことにも感謝する」なんて、それこそ「能天気」ではないか?
だが、私はここで言わなければならない。この言葉を語ったパウロは、「能天気」などではなく、この世の苦しみを最も深く味わい尽くした一人であった。彼は『コリントの信徒への手紙二』11章22節以下に、自分が経験したあらゆる苦労を列挙している。その後で、12章10節にこう書いた。「私は、もろもろの弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、そして行き詰まりとを、キリストのために喜ぶ(新共同訳:満足している)。なぜならば、私が弱い時、その時にこそ私は力ある者なのだから」(青野訳)。苦しみを通って、そして、キリストの苦しみを見上げるときに、人は初めて本当の喜びを知る。パウロが「いつも喜んでいなさい・・・」と言ったのは、そういう意味なのだ。
以前、今井美樹が歌う "Goodbye Yesterday"という歌を聴いて心を惹かれたことがあった。その中に、こういう一節がある。
「思い切り笑って泣いて / 自分らしさに出逢えた / やっと 辿りついた / 永遠の優しさに続く路 / 涙の数だけ人はきっと / 幸せに近づいているはず・・・」。それからこうも歌う。「たとえば誰かを愛して / 傷つくことがあっても / それは 愛(いと)しい傷 / 明日への道しるべ / すべてを受け入れた時に / 光は近づいてくる」。そしてこう結ぶ。「歓びと哀しみに抱かれて / 私は優しく微笑んでいる / さよならこそ昨日への感謝 / Goodbye Yesterday and Hello tomorrow・・・」(作詞:布袋寅泰)。
一寸甘いが、中々いい歌だと思う。とくに、「すべてを受け入れた時に / 光は近づいてくる」という所など、胸を打つものがある。人生に傷ついて、多くの涙を流した末に、人はやっと優しさと微笑みと喜びと感謝に辿りつく。これは真実だ。
しかし、この歌はあくまでも個人的な愛情の領域に限られているように思われる。私たちは、視線をもう少し広げて、人類の経験や歴史を考えてみたい。
敗戦の頃、東京大学仏文科の助教授だった渡辺一夫さんは『敗戦日記』(博文館新社)を書いて、後に出版した。私は最近、妻が切り抜いておいてくれた昨年8月15日付『朝日新聞』のコラムで初めてこのことを知ったのだが、彼は45年3月11日、あの東京大空襲の翌日からこの日記を書き始めたという。最初のページには、ダンテ『神曲』地獄編の「一切の望みを棄てよ」という言葉をイタリヤ語で記し、「思い出も夢も、すべては無残に粉砕された」と書いた。焼け野原の東京を前にして、彼は絶望したのだ。だが、渡辺さんは続けてこう書いたという。「かの人の絶望に、常に思いを致すこと。・・・かの人の苦悩に比すれば、今の試練なぞ無に等しい。耐えぬくこと!」。
「かの人」とは誰か? キリストだという。私はこのことに激しく心を揺さぶられた。渡辺さんは絶望のどん底で、十字架上で死んで行った「かの人の絶望に、常に思いを致す」という課題を自らに課したのであった。私は、彼の信仰については何も知らないが、彼はその時、絶望に瀕してもなお希望を語るという人類的な課題に目覚めたのではなかったか。そして、この課題は弟子の一人である大江健三郎さんにも引き継がれた。彼が次の世代に向かって希望を語ることを止めないのは、偶然ではない。
世界は暗い。絶望的に暗い。だが、「夜は更け、日は近づいている」(ローマ13章12節)のである。私たちは、今どんなに暗くても、やがて確実に朝が来るという希望を語り、どんなに苦しくても「かの人の絶望に思いを致して」喜ぶのだ。これこそ人類的な課題、すなわち、「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」に他ならないのである。