2006・1・8

「神の知恵」

村上 伸

イザヤ書42,1-4コリント第一 1,26-31

どの宗教も、周辺世界の思想的影響を受けて少しずつ変わって行く。キリスト教も同じだ。教会史家・ハルナックは、1世紀の終わり頃に既にキリスト教の「ヘレニズム化」が始まっていた、と言う。ヨーロッパがゲルマン民族によって支配された時には、キリスト教の「ゲルマン化」が起こった。戦時中、日本のキリスト教は、絶対とされていた「現人神・天皇」への信仰に順応した。歴史的な世界において、こうしたことはある程度避け難いかもしれない。だが、大切なのは本質を売り渡さないことである。

今の日本では保守化への大きな流れが勢いを増し、メデイアも一般民衆もそれに呑み込まれようとしている。「この道はいつか来た道」! この危険は教会にも及ぶかもしれない。その中で私たちは、かつての過ちを繰り返さないために、今こそ主イエスに従わなければならない。主イエスとその福音を、二度と裏切ってはならないのだ。

さて、今日のテキストに書いてあることも、実は、今述べたことと関係がある。

コリントは、アテネから西へ約60km、有名なコリント地峡の喉首のようなところにある港町だ。海陸交通の要衝であるために種々様々な人々が行きかい、従ってこの町には多様な文化が栄えた。市内の至る所で発掘された市場・劇場・浴場・競技場・神殿などの遺跡からも、そのことは窺えるという。

このコリントの町にパウロが教会の基礎を据えたのは、第2次宣教旅行の途中、紀元49年から50年にかけてであった。彼は1年半この町に滞在し、大切な草花を「植える」3章6節)ようにして、じっくりと教会を育てた。もちろん、彼が産みの親となった教会は他にもいくつかある。しかし、彼はコリントの教会とはとくに濃密な関係を持ち続けた。それは、この教会が、港町の奔放な気風に影響されたせいか、次々に困った問題を惹き起こしたからである。出来の悪い子供ほど可愛いというが、パウロは、決して模範的とは言えないこの教会のことを特別に気にかけて、この町を立ち去った後も連絡を絶やさなかった。

私は今、「困った問題」と言った。一体、それはどういう問題だったのだろうか?

先ず、教会内に分争があった(1章11節)。性道徳上の堕落もあった(5章1節)。自由の履き違えから起こった対立もあった(8章9節)。それだけではない。教会の集会に本来あってはならない混乱も生じた(11章18節)。その上に、肝心な復活信仰が揺らいでいた(15章12節)。こうした問題を、パウロはこの手紙で一つ一つ具体的に取り上げて戒め、時には個人的な感情を露わにしながら教えたのである。

だが、これら個々の問題の背後にもっと大きな根本問題があることに、パウロは気づいていた。それは、「知恵」を最高の価値とする洗練されたヘレニズム文化に心を惹かれ、「十字架の言葉」を愚かと感じてそこから離れて行く信徒が少なからずいた、という事実である。これは、生まれたばかりの教会にとっては、その存立を揺るがす大問題であった。

むろん、知恵には価値がある。どんな人にも知恵は必要だし、聖書にも「知恵文学」というものがあって、そこでは知恵が褒め称えられている。ただ、聖書における知恵は、ヘレニズム文化におけるように独立の価値を持つものではない。それは、神から与えられるものであり、それ故に、「主を畏れることが知恵の初めだ」(箴言9章10節)と言われるのである。今日のところでも、「キリストが、わたしたちにとって神の知恵」(30節)と言われている。だから、神から知恵を与えられたことに感謝することはあっても、それを自分の手柄のように鼻にかけて「誇る」ことは許されない。

ギリシャの学問的伝統(哲学・歴史学・芸術など)にとっては、知恵が最高の価値であった。ユダヤ人が上からの「しるし」(神の証明)を求めるのと対照的に、「ギリシャ人は知恵を探す」22節)とパウロは言う。人間は自らの努力によってしばしば素晴らしい文化の華を咲かせるが、それは知恵の働きである。人はそれを誇る。

この人生観は、ただ「十字架につけられたキリスト」23節)を語ったパウロの宣教とは全く違う。救い主が犯罪者のように十字架の上で殺された、という思想には華やかさがない。イザヤが「この人には・・・見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」イザヤ53章2節)と言ったように、暗く惨めで、泥臭い。

だが、あの真実な方が他者のためにそこまで身を落として下さった! 救いはそこにしかないのである。そのことを思わず、華やかで洗練された知恵の言葉を誇ることは、聖書が持つあの深みから逸脱することであり、福音の「ヘレニズム化」に他ならない。

コリントの信徒たちには正にこの危険がある、とパウロは指摘する。そして、続けてこう言う。「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論者はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」20-21節)。これは、「賢者の知恵は滅び、聡明なものの分別は隠される」という預言者イザヤの言葉(イザヤ29章14節)の引用だ。預言者イザヤも使徒パウロも、「世の知恵を誇る」ことを徹底的に批判して、それを超えた所に神の知恵があると言ったのである。

それ故、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。・・・それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」26節)。神の知恵とは、こうしたものだ。


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