2005・12・18

「神の<然り>」

村上 伸

イザヤ書52,7-102コリント 1,18-20

 「日本漢字能力検定協会」という組織が、毎年、その年の世相を象徴する漢字を一般から募集する。2005年のために選ばれた漢字が、先週、発表された。それは「愛」である。偉いお坊さんが太い筆でこの字を書いているところがテレビのニュースにも映った。この字が選ばれた理由は、「愛・地球博」(名古屋)の開催とか、紀宮の結婚とかにあるという。これには、少々首をかしげた。というのは、実際に私たちの目に触れ・耳に聞こえてきたニュースの中には、「愛」という字にまるで似つかわしくない出来事が圧倒的に多かったからである。

 これに関連して12月13日の朝日新聞「天声人語」が書いているところによれば、阪神淡路大震災が起こった1995年の漢字は「震」、それ以後、「倒」・「毒」・「戦」・「災」という暗い字が毎年続いたそうだ。この辺で明るい字を選びたいという気持ちは、私にも分かる。しかし、実際のところ、2005年はひどく暗い年であった。

 「天声人語」の記者は続けて、「日々ニュースに向き合っている身で振り返ってみると、残念ながら『崩』という字に行き当たった」と書いている。彼は、前年末のインド洋大津波・JR西日本の列車が脱線してマンションに激突した大惨事児童を狙った凶悪犯行の続発・耐震設計偽装事件東京証券取引所のシステム欠陥などを挙げているが、私はそれに、イヤという程続いた自然災害・今ごろ明るみに出たアスベスト被害・首相の不見識によるアジア外交の破綻を付け加えたい。「天声人語」は、「これまで築かれてきた様々な仕組みが、次々と崩れて行くかのようだ」と嘆き、次のような言葉で結んでいた。「『愛』もまた、崩れやすいものかも知れない。しかし、この『愛』の字には、崩壊の連鎖を何とか押しとどめたいという願いが感じられる」

 確かに、「愛」は人類の願いである。しかしその願いがどんなに切実なものであっても、人間の力に頼っている限り、空しく幻滅に終わる他はないだろう。私たちは眼を天に向けなければならない。洗礼者ヨハネの父ザカリヤは、「神の憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」ルカ1,78-79)と歌った。私たちの世界を照らす曙の光は、暗い地面・嘆きの大地からは射して来ない。ただ「神の憐れみ」という高い天から来る。そして、神の憐れみが確かに存在する限り、それは必ず来る。

 18節「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」という聖句は、差し当たり、神の救いの約束には裏表がない、神の言葉は真実だ、という意味に取れる。「あなたがたに向けたわたしたちの言葉」、つまり、イエスの弟子たちがこれまで渾身の力を込めて語ってきた神の国の約束は、「然り」であると同時に「否」であるというようないい加減なものではない。曖昧ではない「然り」、裏表のない真実である。

 耐震設計偽造問題で、先週、国会で証人喚問が行われた。テレビ中継を見ると、自分の罪を率直に認めていたのは姉歯という人だけで、他の証人たちは言を左右して何とか追及を逃れようとし、真実を語ってはいないという印象を受けた。自己防衛的になると、人は必ず言葉を濁し、裏表のある言葉を語るものだ。パウロが「『然り、然り』が同時に『否、否』となる」(17節)と言うのは、そういうことであろう。

 しかし、18節の言葉の意味は、単に「裏表がない」とか「信頼に値する」ということだけではない。それ以上に、神は主イエスにおいて人間の存在そのものに対して「然り」と言われ、それを肯定された、ということであろう。

 赤ん坊は、両親の肯定的な頷きを見るだけで、とても幸せな表情をする。人は自分の存在が「肯定されている」と感じた時、初めて喜びをもって生きることができる。

 私は、1966年の夏ベルリンに留学したとき、かねてその著書を読んで尊敬していたゴルヴィッツアー教授の講義に出ることにした。最初の時間、まだドイツ語も十分には分からず、周囲にいるのは知らない人ばかりで、私は緊張で疲れ果てた。休み時間に机に突っ伏してじっとしていると、突然、肩に温かい腕がまわされた。見ると、それはゴルヴィッツアー教授だった。優しい目で笑いかけ、ゆったりとした口調で親しく話しかけられた。驚いたことに、私にはその時、彼の言うことがすべて理解できた。それは、私が「あるがままに受け入れられている」と感じたからだと思う。

 やがて、彼の神学の根底には「神の然り」という確信があることが分かってきた。神は主イエスにおいて、人間の存在そのものに対する「然り」を語られたのだ。「神の子イエス・キリスト・・・においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです」(19-20節)、とパウロが言うのはその意味であり、これは、ゴルヴィッツアー先生の心からの確信であった。他者に対する彼の肯定的な姿勢も、この確信から来ていたのである。

 この時の先生の講義の主題は、「共に生きることへの自由」であったが、「神の然り」が心から信じられるときだけ、人は「他者と共に生きる自由」を自らのものとすることができる、ということを私は深く教えられた。

 クリスマスとは、私たちの間で現実となったこの「神の然り」を受け入れる時である。「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」ヨハネ1章14節)。この事実が、私たちを新たに他者に向かわせるのである。


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