2005・12・11

「互いに受け入れる」

村上 伸

エレミヤ書31,15-17ローマ15,7-13

ローマの信徒への手紙15章7節は、私が結婚式の司式をする際に引用する聖句である。従来の結婚式式文には「妻は夫に従え」というような男性中心的な文言が多くて気になっていた。そんな時、ボンヘッファーがこの言葉を「最もすばらしい結婚式の聖句」と賞賛しているのを知り(『獄中書簡集』、43頁)、同感した。それ以来、結婚式の時には私も必ずこれを読むようになったのである。

D・ボンヘッファーは、ヒトラーの暴虐に抵抗したドイツの牧師である。1943年4月にナチスの秘密警察に逮捕され、2年間の獄中生活を送った後、45年4月に処刑されるのだが、入獄して間もなくの頃、親友のエバハルト・ベートゲが姪のレナーテと結婚することになった。彼は心からこれを喜び、特別に二人の結婚式のために獄房で説教を書いた。かなり長文のもので、決してありきたりの「お祝いの言葉」ではない。二人のためによく考えられた温かい祝福の言葉、神学的にも優れた説教である。

この説教の中で、彼は先ず「神は、あなた方の結婚生活の基礎としてあなたがたにキリストをプレゼントされます」と述べ、その後であの7節を引用しているのである。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。

そして、彼はこの言葉の意味を次のように説明した。「一言で言えば、あなたがたの多くの罪が赦されている。その赦しの中でいっしょに生きなさい、ということです。それなしにはいかなる人間の交わりも、ましていかなる結婚も決して長続きするものではありません。互いに相手に対して権利を主張せず、互いに相手を批判したり裁いたりせず、互いに相手を見くださず、決して相手に責任を押しつけず、あるがままに相手を受け入れて、日々、そして心の底から赦し合いなさい」。

彼がここで言いたかったことを敢えて箇条書きにすると、

  1. 二人とも多くの罪を持つ人間である
  2. しかし、神は二人のすべての罪をキリストの故に赦して下さった
  3. だから、二人は罪を赦された人間として一緒に生きる
  4. この認識なしにはいかなる結婚も長続きしない
  5. それ故、あるがままに相手を受け入れて赦し合うことこそ二人の結婚生活の基礎である

ということになるであろう。

 これは結婚生活だけでなく、あらゆる人間関係に通用する原則である。このことに関連して、アードルフ・ポルトマンの『人間はどこまで動物か』(1961年、岩波新書)という本に触れておきたい。

ポルトマンは50年ほど前に活躍したスイスの動物学者だが、その本の中で、人間の子どもは「母親や養護者の助けなしには一日も生きていけない能なし」だと書いた。高等哺乳類、例えば山羊や馬の仔は、生まれるや否や立ち上がって仲間の後を追いかける。眼も見えるし、母乳も自力で吸う。身体の割合も、成熟した大人の形に近い。だが、人間の赤ん坊は、あらゆる哺乳類の中で「最も弱い状態で」生まれて来る。歩くことはおろか、自力で食べることも覚束ないし、目も見えない。泣く以外には何もできず、一切を母親や養護者に依存している。愛され・受け入れられるということがなければ、一日も生きて行けない。夜中に泣けば直ぐ乳を飲ませ、どんなにひどくおシメを汚しても直ぐに替えてくれる。このように、「あるがままに」受け入れてくれる周りの人々の「愛と受容」のお蔭で、生きることができるのである。

むろん、他の動物も基本的には同じだが、人間の場合は、それが最も典型的に現れる。人間は、両親やきょうだい、恩師や友人たち、周りの人々の「愛と受容」がなければ生きていけない。そして、自分も次の世代に対してそうする。さもなければ人間という種の保存は不可能だ。だから、「愛と受容」は命の基本構造なのである。

これは、神が人間の多くの罪を赦して「受け入れて」下さったという根源的な事実を暗示するものだ。そしてそれは、クリスマスにおいて現実となった、とボンヘッファーは言う。なぜなら、「神が、イエス・キリストの受胎と誕生において、人間と同じ体を取り給うた」からである。このように、「神は人間を愛し給う。神はこの世を愛し給う。理想的な人間をではなくて、あるがままの人間を、理想的な世界をではなくて、現実の世界を愛し給う」(『現代キリスト教倫理』、23頁)。

この神の「愛と受容」! これこそ、私たちの世界が夢にも忘れてはならない指針である。これを真剣に受け止めたのがパウロであった。以前ユダヤ教原理主義であった彼は、その立場から他宗教、殊に新興のキリスト教に対して極めて差別的・攻撃的であったが、ダマスコ途上で回心して以来、根本的に変わる。今や彼は、エルサレム神殿の中庭にある「隔ての壁」、異邦人が中に入ることを厳しく禁じていたあの壁も、キリストによって「取り壊された」エフェソ2章14節)と宣言する。今日のところでも、彼は旧約聖書の言葉を自在に引用しながら、「すべての異邦人よ、主をたたえよ」詩編117編1節)と高らかに歌っている。かつての差別主義者の面影は全くない。

今日、世界の各地で宗教間の対立と敵意が強まっている。その中で私たちは、神がご自分に敵対する人間をキリストの故に赦し・受容されたということを心に刻まねばならない。ボンヘッファーはこう勧めている。「互いに相手に対して権利を主張せず、互いに相手を批判したり裁いたりせず、互いに相手を見くださず、決して相手に責任を押しつけず、あるがままに相手を受け入れて、日々、そして心の底から赦し合いなさい」。この「赦しと受容」こそ、現代に与えられた神の戒めなのである。そして、待降節はそのための備えをする時に他ならない。


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