2005・10・30

「信仰によって生きる」

村上 伸

ハバクク書2,1-4ローマ1,16-17

 今日私たちは、明日の「宗教改革記念日」を前にしてこの音楽礼拝を守っている。いつかも話したように、1517年10月31日、マルチン・ルターは「免罪符」問題についての討議を呼びかけた「95か条の提題」をヴィッテンベルク城教会の扉に張り出した。この「小さな」行動は、ルター自身が予想もしなかった大きな時代のうねりとなって遂には世界を動かすことになった。この点に先ず注目したい。

 私は、若き日に鈴木正久牧師からジョン・ウェスレーの言葉を聞かされて、強い印象を受けたことがある。それは、「神のほか何者をも恐れず、罪のほか何ものをも恥じず、イエス・キリストとその十字架のほか何ものも誇らない人間が10人いれば、世界は動く」というのである。これは大言壮語だろうか? そうではあるまい。ルターのあの小さな行動が、歴史の大きな変革を生み出したことを考えると、その言葉が真実であることを信じずにはいられない。

 今日の日本は危機的な状況にある。国家財政は莫大な借金を抱えてほとんど破綻しかかっているし、年金の問題一つを取ってみても、庶民の暮らしの前途は暗い。その中で、政府はあの戦争の反省を忘れ、アジアに真の平和を作り出すという責任を放棄したかのようである。この現状を見ると、私たちはしばしば無力感に襲われる。

 だが、神は、私たちにも可能性をお与えになっている筈だ。そう信じる。私たちは今日、主イエスを見上げて神の恵みに感謝し、み言葉に耳を傾け、賛美の歌と音楽の賜物を動員して神を賛美している。それ自体は、現代世界の動きの中では取るに足りない小さな行為かもしれない。しかし、そこにも神は働き給うのである。それがいつの日か歴史の大きなうねりを呼ぶことがないと、どうして言えるだろうか。

 宗教改革の時もそうだったのだ。何人かの先駆者があちこちでそれなりの働きをしたが、それらはいずれも散発的であったし、片っ端から権力によって潰されて、徒労に終わったように見えた。しかし、そのエネルギーは、ちょうど地震のエネルギーが地下何千メートルという深部で余震を惹き起こすように、目には見えないところで次の動きを用意し、遂には歴史を揺り動かしたのではなかったか。

 14世紀の終わりごろ、イギリスではジョン・ウイックリフが孤独な戦いを挑んだ。彼はオックスフォード大学の学長を務めたほどの人物だが、当時の教会の堕落を心から憂えて改革に着手した。「聖書のみ」を主張して、ラテン語訳聖書(ウルガータ)を民衆の言葉である英語に翻訳した。この点でもルターの先駆者と言える。だが、1384年に死んだ後、彼は異端者として断罪され、著書はことごとく焼かれ、墓は暴かれてその骨は火あぶりの刑に処せられた。

 その少し後、チェコのプラハにヤン・フスが現れ、ウイックリフの影響を受けて教会の堕落を批判し、改革を始めている。彼はプラハ大学総長にもなった当時第1級の知識人だったが、教会によって著述も説教も禁じられた。これを無視して語り続けたために、彼はとうとう破門宣告を受け、1415年には異端審問にかけられて、火刑台の上でその生涯を閉じた。

 イタリヤのフィレンツエでも、ジラルモ・サヴォナローラが登場してある程度改革を実行に移している。15世紀の終わり頃のことであった。だが、彼もまた教会から破門されて火刑に処せられた。

 これらの動きは散発的であり、そして、いずれも潰された。徒労に終わったように見える。だが、果たして徒労だったか? いくつかの小さな動きが、時が来ると一つに集って、巨大な波動になることがある。ルターの宗教改革は、そのような現象であった。それはルター個人の力によるものではない。時代を動かしたのは彼の力ではなく、根本的には聖書の言葉、すなわち福音である。今日の箇所に、「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(16節)とある通りだ。そして、この神の力は、次の17節で一層明らかになる。「福音には神の義が啓示されています」。

 ここで、ルターの若き日のことに触れておきたい。彼はその頃、エルフルトの修道院にいて、修道士として神が求め給う「義」を達成しようと模範的な努力をしていたと伝えられる。だが、いくら努力しても、目標にはなかなか到達できない。彼はそのことで苦しみ、遂には「神の義という言葉を憎むようになった」、と告白している。

 だが、まさにその時に、「神の義は福音の中に啓示される」というパウロの言葉が、彼の心の闇に射し込んできたのである。私たちが律法を行うことによって「義」を達成するというのではない。憐れみ深い神が、私たちを信仰によって「義として」下さるのである。そのように、神の義は福音の中に啓示される。それが信じられたときの喜びを、ルターはこう書いている。「ここでわたしはまさに生まれ変わったように感じた。そして開かれた門を通ってまさに天国に入ったように感じた。そのときたちどころに、全聖書が私にとって全く別の姿を示すに至った」。

 この神の言葉の力、そこから来る深い喜びと希望こそ、宗教改革の原動力であった。この神の言葉の力が今も生き続けている限り、私たちには絶望する理由がない。


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