説教に先立って先ず皆様にお礼を申し述べさせて頂きます。『上原教会の歩み』をこの教会が後押しして下さったお陰で、今年の5月に出版することができました。そのお礼を申し上げたく思います。本当に有難うございました。丁度昨年の夏から昨年の今ごろにかけて、教会史の執筆と編集作業をしていたとき、私は今までに体験したことがないような、不思議な経験を致しました。それは自分が指を動かして活字にしていながら、それは自分ではないような体験でした。何かに押し出されて書いている。その押し出す力は何なのか。教会史は自分の歴史ではありません。自分が関わっていても現在の代々木上原教会でもそうですが、多くの方々が働いておられます。そうした働きにはある共通の土台があり、共通の目標があるものです。教会史を執筆していると、そうした土台と目標が見えてきて、しかも夫々の働き人を動かす力も見えて来ます。その力に与り,押し出されて書いていく。こんな体験は今までにあまりなかったことでした。その土台と目標、押し出す力に自分も与っている。今日の説教題に「生かされて生きる歩み」と付けさせて頂いたのですが、それは「上原教会の歩み」でありながら、「生かされて生きる者たちとその交わり(教会)の歩み」であったように思います。そしてこの生き方は今私達が関わっている代々木上原教会についても当てはまるのではないでしょうか。
先ほどご一緒に詩編第139編を交読致しました。聖書朗読では創世記12章1〜4節(アブラムの旅立ち)とヨハネ福音書12章1〜8節(ナルドの香油)に聞きました。詩編139編の歌人も、アブラムもまたマリアも「生かされて生きる信仰者の歩みと生き方」がそこに証されているので、私は深い感動を覚えます。
「主よ、あなたはわたしを究め、私を知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置いていて下さる。その驚くべき知識は私を超え、あまりにも高くて到達できない。」
実に素晴らしい信仰告白ではありませんか。もし私たちがこの歌に共感できるとすれば、それは信仰者として同じような体験を何処かでして来たからであると思います。「押し出され、生かされて今ここに生きている、と告白出来るような体験です。私達は、そのような体験をどのようにして身につけて来たのでしょうか。教会の交わりを通して、牧師先生の説教とご指導を通して、聖書の学びと祈りの輪を通して。そうした事は全て当てはまると信じます。でも、極まる所、自分を押し出して下さる力に圧倒された神と私との出会いの体験が土台になっている筈であると信じます。では、どのようにしてそのような出会いを体験出来たのでしょうか、また、出来るのでしょうか。
詩人も、アブラムも、またマリアもその秘訣を証しています。それは、自分の努力や営みが全て無効であるような挫折と限界に直面し、自我が打ち砕かれ白旗をあげている状態、その所で出会う全能の力、またその力を統べ治めておられる絶対者を仰ぎ見る体験です。
詩編139編の歌人について見るならば、7節から12節にかけて著わされている個人的な体験です。それを一言で言えば、神の前からどんなに逃げても逃げ切れなかった、と言う体験です。丁度預言者ヨナがアッシリアのニネべに行けと命じられているのに、それとは全く反対の方向に逃げたのですが、嵐に会い、海に投げ捨てられ、大魚の腹の中で懺悔と回心を通して神と出会いました。それと、139編の歌人は自分の力で頂点に立とう試みても限界にぶち当たり、絶望のあまり死(自殺)を望むかのように身を投げ出している。そこで詩人は創造主と出会うのです。
(13節以下)「あなたは、私の内臓を造り、母の胎内に私を組みたてて下さった。私はあなたに感謝を捧げる。私は恐ろしい方によって驚くべきものに作り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、私の魂は良く知っている。秘められたところで私は造られ、深い地の底で織り成された。あなたは私の骨も隠されてはいない。胎児であった私をあなたは目で見ておられた。私の日々はあなたの書にすべて記されている。まだ、その1日も造られないうちから。」
人が神と出会うその出会い方には色々な機会があると思います。しかし、宗教的体験の原点とも言える神、絶対者とか、超越者、全能者と呼ばれている存在と出会う、その出会い方に共通しているところは、自我が打ち砕かれ、裸の身で曝されている状態、胎児のように自分では何も出来ない状態に置かれた所ではないでしょうか。人はそのような状況の中で神と出会うのです。ドイツの宗教学者、ルードルフ・オットーは1917年に『聖なる者』と云う本を著わしました。その中で絶対者と出会ったものが抱く思いを、被造物感情と言う言葉で言い表しています。これは正に139編の歌人と同じ体験を指しています。
「あなたの御計らいは私にとって如何に尊いことか。神よ、如何にそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても,私はなおあなたの中にいる。」
この言葉(17節)は被造物感情に満たされた詩人が歌う、信仰告白の頂点をなす言葉として聞くことが出来るでしょう。自分が造られて今、ここに生きている。言い換えれば、「生かされている」という感情から発した信仰の告白です。
次に創世記12章でアブラムが神との出会いを体験する出来事に注目して見たいと思います。アブラムはイスラエル民族の父祖として聖書に登場いたします。11章27節以下では家族構成と移住の話が短く語られています。アブラムの妻サライは不妊で子供が与えられなかった、と30節で記されています。父親のテラは次男を亡くし、長男のアブラムに子供が与えられない不幸な出来事を嘆いている不幸に追い討ちをかけるように、西の方から外民族が侵入してきます。そこで、一族はウルを逃れて、放浪生活に入ります。カルデアのウルを出発し、カナンの地方に向かいました。しかし、その途中、ハランという所(ここはユーフラテス川が右に大きく曲がり山岳地帯に入る手前、現在のシリアがトルコ領と境を接するウルファの近くで、このままユーフラテスを昇って行くか、それとも小アジアからギリシャ、ヨーロッパの方向に向かって行くか、或いは地中海に沿ってエジプトの方向に降って行くのか、その分かれ目の所)にやって来たのです。父親テラは高齢でこのハランで死にました。難民となり、家長の父親を無くして万策尽きた状態でアブラムは神と出会うのです。それが12章1節から3節に述べられています。聖書では追い詰められた状況よりは、神との出会いによって「生かされて生きる」信仰者の決断を中心にして語られているのですが、ウルと言う最も肥沃な地で高度の文明を享受していた人々が何故,旅立たねばならなかったのか、なぜ川沿いを放浪しなければならなかったのか、そしてハランで父のテラを無くしたというだけでも危機的な状況が伺えます。戻るに戻れず、山に行くか海岸線を行くか、生きるか死ぬかの分かれ目に立たされている状況にあることは、行間を読めば十分に推察できる筈です。「アブラムよ。お前は心配するな。私が一緒にいて行き先を示すから、行きなさい。地上の人々は全てお前によって祝福を得る。サライが産まず女であるなどと言って嘆くのではない。必ずお前は祝福に与って大いなる国民となる。私の言葉を信じて行きなさい。」
アブラムはこの声に聞き従って、行く先を知らないで先を進みます。アブラムがアブラハムと言う名前にかわり、信仰の父として称賛される所以がここにあります。
(旧約聖書ばかりでなく、新約聖書でもアブラハムは信仰の父と呼ばれています。ヘブライ人への手紙11章8節〜11節にこう書かれています(415頁)。
「信仰によってアブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎているのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると信じていたからです。」)
不幸と思える出来事に直面して人は神と出会います。ヨハネ福音書に記されているマルタとマリアは弟ラザロが死んだ悲しみの中でイエスの神性・イエスが本当に神の性質を備えた方であると告白出来るような体験をします。その場面は11章で詳しく語られています。既に墓に葬られているラザロと弟の死を嘆き悲しんでいる姉妹を前にして、イエスは「あなたの兄弟は復活する」とマルタに言いました(23節)。これに対してマルタは通俗的な復活信仰をイエスも語っておられるのではないかと先回りして、こう述べています。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」しかしイエスの答えは、全く違っておりました。
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。この事を信じるか。」(25,26節)
終わりの時ではなく、神であるイエスと出会っている今この時こそが死んでも生きる命であり、永遠である、と言われます。また、出会いのうちに生きている人は何時までも死ぬことはない、と言われます。
このことを信じるかと問われた姉妹は受け入れます。つまり、信仰の次元で復活と永遠の命を受け入れた、と云うことです。誕生以前の世界と、地上の世界と、死後の世界を一つに結ぶ永遠の世界、これがイエスによって示された永遠の命であり、信仰によって私たちが与る事の出来る世界です。
ヨハネ福音書12章の始めに記されたナルドの香油物語(1〜8節)はイエスとの出会いによって永遠の命受け入れて始めて理解できる物語です。この世の物差しで見るならば、マルタを咎めるユダの方が常識的に聞こえます。300デナリオンと言えば1年近くも生計を維持出きるほどの大金です。それをイエスの足に注ぎ、髪の毛で拭う、これは正に無駄としか思えない行為です。十字架を予見し、イエスの埋葬の準備であったとしても、この世に物差しに従えば無駄は無駄としか言えません。しかし信仰の世界に立って見れば、イエスがマリアを称賛する理由が分かるのではないでしょうか。イエスはマリアの中に永遠の世界を受け入れる信仰を見たからです。テイリッヒはこれを「聖なる浪費:" Holy Waste" と呼びました。神が御独り子を世に遣わされた事。その御独り子が十字架で命を捧げ、贖いの死を遂げられたこと、しかし甦って生きておられること。「聖なる浪費」が「ナルドの香油」によって予見されているのです。イエスに倣う教会がこの世に託された愛の業も、マリアがイエスに香油を注いだ出来事に繋がっているのです。ですから、マルコ福音書14章9節ではナルドの香油物語をこう結んでいます。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられている所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。」
愛のゆえに為される業は,愛の関係にいない者からみれば無駄としか言い様がありません。愛の内にある人が相手に捧げる、物であれ業であれ、そうしたものは相手から頂き、生かされている恵みに応えて、そのお礼として捧げているのであって、その価値はこの世の物差しでは計れない程豊かなものとなります。愛の関係が見えていない相手には、全く無駄なもの、浪費に見えるのです。親が子を慈しむ無償の働きは、部外者から見れば「無駄、浪費」であるかもしれません。愛し合う男女は、はたから見れば時間についてもお金についても、損得や利益計算、合理的な判断を越えてまで相手のために使うものです。お互いはそれを無駄とは思わない筈です。愛するとは、理性的判断を超えてさえ、浪費を厭わず相手に注ぐ業である、と言えるのです。その頂点に神が御独り子をこの世に遣わされた事、そして、愛なきこの世の罪を償って御独り子が犠牲の死を遂げられた事、そのことによって、「聖なる無駄」が誠の愛をこの世に証している、と「ナルドの香油」物語は述べています。
139編の歌人や、アブラムのように万策尽きた状態で、この世的には不幸と思われる出来事の中で、人は全能者と出会う事が起こります。不幸の中でも、最も辛い不幸な出来事はラザロを亡くした姉妹のように、身内を亡くすことではないでしょうか。親しい人を見取ること、そして、最後には自分も終わりを迎える、これほどの不幸が他にあるでしょうか。シモーヌ・ヴェイユは『不幸について』記した文書のなかに、こう言う言葉を述べています。。
「不幸の何であるかを知ったものは、決定的に神の不在を口にせざるをえない。にもかかわらず、その不幸の中においてのみ神が向こうから訪れて来、その不幸の中においてのみ、神の愛を知る事ができる。」
カトリック作家の高橋たか子さんが1971(昭和46)年5月に17年間連れ添って来た夫であり、作家であった高橋和巳を亡くされたあとで、その時の思い出を残しておられます。
「死の重さを自分一人で抱え持ち、その重さの具体的な内容を誰にも語らず、死にまつわる形式的な作法のほかは他人からどんな言葉も望まず、つまり、人間の口から出されるあらゆる言葉は、この死の重さに何の関わりもないものと見極め、他人の言葉も自分の言葉もすべて無効だと感じ、そうして、一人で黙りこんで死の重さを量っている私は、もしかしたら、神のようなものだけを信じているのかもしれない。だが、神のようなものとは、必ずしも神でなくてもいいのである。」
シモ−ヌ・ヴェイユと高橋たか子さんとに共通している点は、そしてそれは、139編の歌人やアブラムとマルタ・マリアにも共通している所でもありますが、神が不在であると思えるような限界状況にあって、神と出会っているのです。高橋さんが最後に述べておられる言葉は大変意味が深いように思えます。「一切が無効であると思い、一人で黙りこんで死の重さを量っている私は、もしかしたら、神のようなものだけを信じているのかもしれない。だが、神のようなものとは必ずしも神でなくてもいいのである。」
「神のようなもの」「神でなくてもよい」とは何を指しているのでしょうか。これはキリスト教を含めて諸宗教が教えているような神ではなく、まさにシモ−ヌ・ヴェイユが指摘している、不幸の中にあって向こう側から訪れてくる神、体験として自分に迫ってくる神を指しているように思います。高橋さんは夫の和巳さんが亡くなったあと、和巳さんと親交のあった、加賀乙彦さんや遠藤周作さんの仲立ちで、カトリック教会に出入りをするようになり、、「神のようなもの」がキリスト・イエスを神と告白するような信仰へと導かれて行くのですが、おそらく、「向こう側から訪れてきた神」との出会いを原初的な体験として大切に持ち続けておられるに違いありません。教会に連なる私達は神についてキリスト教の教義や聖書の教えをとおして学び知る道もあります。しかし、そればかりではなく体験としてあの「向こう側から訪れてく神」に裏打ちされていないと、危険な落とし穴に落ちこんでしまいます。原理主義という落とし穴に、自分の宗教が絶対的であり、他宗教、他宗派は邪宗であるとするような戦闘的な宗教に変身するのです。これが今世界をどれだけ苦しめているか、私達は知っておかなければなりません。139編の歌人も一旦はそのような思いあがり、神の身代わりになって、悪を滅ぼす戦士になろうとしています。19節から22節がそれにあたります。
「どうか神よ、逆らう者を討ち滅ぼして下さい。激しい憎しみをもって彼らを憎み、彼らを私の敵とします。」
ヴェイユも高橋たか子さんも「神のようなもの」「神でなくてもよいもの」を見ています。私達の自我を打ち砕き、造られたものとして、謙虚に創造主のまえに跪く宗教的体験、神との出会いの体験を語っています。打ち砕かれた魂をもって、自分の罪、自己本位であった自分の罪を告白し、懺悔と赦しを乞い願う、謙虚な姿です。それは嵐のような不幸のなかにも創造主と対面して安らぎに与る世界です。これが、「生かされて今ここにある」ことを受容できる境地であります。そこには憎しみはありません。憐れみに与る人々の連帯に包まれています。139編の歌人も自分の思いあがりを気付いたからでしょうか,23節と24節はこの世にはない平安の道を祈り求めて歌を閉じるのです。
「神よ、私を究め、私の心を知って下さい。私を試し、悩みを知って下さい。ご覧下さい。私の内に迷いの道があるかどうかを。どうか、私をとこしえの道に導いて下さい。」
重度の障害者で瞬きの詩人として知られた水野源三さんの歌を味わいながら閉じさせて頂きます。
「息: 神経が麻痺しているので、息を大きくして と言われても、息を大きく吸うことができない。息を止めて と言われても、息を止めることができない。息を吐いて と言われても、息を吐くことができない。 神さまの御心のままに 息をして生かされている。」
「不思議です。不思議です。今なお生かされていることが。悲しみや 苦しみを耐えてこられたことが。主の信仰をたもちこられたことが。 天のお父様にただ感謝するのみです。」
「悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう。 お前が来なかったら 強くなかったなら 私は今どうなったか。悲しみよ悲しみよ お前が私を この世にはない大きな喜びが、かわらない平安がある。 主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ。」