2005・7・31

MP3音声

「手を差し伸べて」

経堂緑岡教会牧師 松本 敏之

レビ記13,45-46マタイ福音書8,1-4

(1)山を下りるイエス

 先ほどお読みいただきましたマタイによる福音書8章の冒頭に、「イエスは山を下りられると」とあります。みなさんの中の多くの方がご存じかと思いますが、マタイによる福音書は、5章から7章の三章にわたって、「山上の説教」と呼ばれるイエス・キリストの教えを記しています。山の上は集中して、み言葉を聞くにはふさわしい場所です。普段の生活を一旦休止し、山に上って主の言葉を聞くような生活は、今日の私たちにも必要なことです。こうした山の上とは、私たちにとっては、年に一度くらい開かれる修養会のようなものでもあるかも知れませんし、あるいはまた週ごとの日曜礼拝であるかも知れません。そこで信仰をリフレッシュし、新たな力を得て、普段の生活へと帰っていくのです。いつまでも山の上にとどまっているわけではありません。

 イエス・キリストのように罪のない方、神の子は、山の上がよく似合います。それこそ仙人のように山の上に住んでおられて、私たち俗人がその尊い方の話を伺うために、山に上るというのであれば、わかるような気がします。しかし聖書によれば、誰よりも先に、イエス・キリストが先頭に立って山から下りてこられるのです。誰よりも山の上が似つかわしい、清いイエスが、山からおりてきて、汚れたこの俗世間のまっただ中へと、進んで行かれて、その後を大勢の群衆がついていったのです。このイエス・キリストの姿の中にすでに大きな福音が語られているのではないでしょうか。

(2)山のふもとの出会い

 山からおりて、主イエスが真っ先に出会われたのが、重い皮膚病を患っている人でありました。これは偶然でしょうか。私は偶然だとは思いません。5節を見ますと、「さて、イエスがカファルナウムに入られると」とあります。つまり主イエスは、ここではまだ町に入っていません。山のふもと、町はずれの出来事でした。この重い皮膚病の人は、町はずれで主イエスに出会い、町はずれで誰よりも先に山から下りてこられた主イエスを迎えたのです。どうしてでしょうか。それは、この人が町に住むことを許されていなかったからです。この重い皮膚病というのは、(新共同訳聖書の初版では、「らい病」と訳されていました)単なる体の病気ではなく、宗教的に汚れた病気であると信じられていました。何か悪いことをしたから、この病気にかかったのだと、みんなが思っています。健康な人との交わりを絶たれ、人間扱いされませんでした。もしも誰か健康な人が近づいてきたら、「自分は汚れた者です。近づかないでください。触らないでください」と叫ばなければなりませんでした。そういう律法があったのです。

先ほどお読みいただきましたレビ記13章45〜46節には、「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れたものです』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」と記されていました。(レビ記の「重い皮膚病」は、新約聖書の「重い皮膚病」よりも広い意味で、さまざまな種類の皮膚病が含まれていますが、「汚れた」病気であると考えられていたことには変わりありません。)

 社会から抹殺される。身を隠して退かなければならない。生きていても生きていないかのごとく、歩いていても歩いていないかのごとく生活しなければならない。こんなにつらいことはないと思います。誰からも相手にされず、どんどん追いやられて、とうとう山のふもとにまで来てしまいました。それゆえに誰よりも先に主イエスに出会うことができたのだと思います。

 この人は三重の悲しみをもっていました。何かおわかりでしょうか。第一はもちろん、肉体的病苦です。体がいうことがきかない。痛い、あるいは重い皮膚病の場合には、逆に痛くなく、体の部分が崩れていく、ということもあるでしょう。第二は宗教的断罪です。体の病苦はつらいですが、それでもみんなに支えられ、励まされれば、まだ救いがあります。しかしこの病気の場合、「それはお前が神の前で何か悪いことをしたから、罪があるから、その罰としてそういう苦しい目に遭っているのだ」と断罪されるのです。それによって、罪悪感にさいなまれたことでしょう。そして第三番目は、それゆえに経験する社会的疎外です。みんなから仲間はずれにされるということです。だから治ったとしても体がいやされただけではまだだめなのです。いやされた後で祭司に体を見せ、完全に治ったと認定してもらわなければなりません。そこで初めて全人的、社会的に回復するのです。

 「重い皮膚病」は世界中のほとんどの場所で、同じように呪われた病気として社会から隔離されてきました。それだけ恐れられた病気であったということもできるでしょう。その中には、今日で言うところのハンセン氏病も含まれています。

 ハンセン氏病の場合、今日でも差別は根深く残っていますが、病気としては病原菌も発見され、克服されてきました。しかし今日でも、この当時の「重い皮膚病」と非常によく似た病気、つまり肉体的病苦と、宗教的断罪と社会的疎外という三重苦を強いられる病気は、形を変えて存在します。私はエイズのことを思います。ここに書かれていることは、今日のエイズを巡る状況とそっくりであると私は思います。病気の苦しみ、死への恐怖に加えて、あれは神様からの天罰だ、悪いことをしたからあんな目にあっているのだ、自業自得だと言われる(特にセックス、あるいは同性愛と結びつけて語られます)。そしてそこからついに、社会からも疎外される。家族も、自分の家族からエイズ患者が出たということをひたすら隠し遠そうとする。つまり(死ぬ前から)社会から抹殺されるのです。

(3)主のみわざは周辺から

 しかし、主のみ業はまさにそういうところから始まるのです。つまり中心ではなく、周辺、あるいは周辺化された人々、つまり端っこへ追いやられた人々から始まるのです。みんな他の人々が、神様から最も遠く離れていると思っているところ、神様から裁きを受けて、のろわれているのだと思っているようなところです。神様の祝福を受けているように見える中心ではありません。見捨てられたような場所、誰もが避けて通る場所、人間扱いされないような場所、主イエスは真っ先にそういう場所へ向かい、そこで人間と出会い、信仰と出会い、御業を始められる。偶然と言えば、偶然と言えるかも知れません。しかし聖書を注意深く読んでみると、そういう神様のやり方、計画というものが浮かび上がって見えてくるのです。普通の物事の普及の仕方は、むしろ反対です。マーケティング・リサーチなどでもやりますように、まず大事なポイントとして中心を押さえる。そして中心から周辺に向かって広がっていく。しかし主イエスはそうではありません。この世の価値観とは違うのです。エルサレムからではなく、ガリラヤのナザレから(ナザレから何のよきものが出ようかと言われている地域から)始まっていく。王様の宮殿からではなく、ベツレヘムの馬小屋から始まる。律法学者、ファリサイ派の人々からではなく、教養も何もない一介の漁師から弟子に選ばれていくのです。これも偶然ではなく、私はむしろそういうところにこそ、聖書のメッセージがあるのではないかと思うのです。

(4)「主よ、御心ならば」

 それでは、次にこの重い皮膚病の人が何をしたかを見てみましょう。2節、「すると、一人の重い皮膚病をわずらっている人がイエスに近寄り、ひれ伏した」。この人は主イエスの姿を見るなり、近寄ってきたのです。私が言ったことを思い出してください。この人は健康な人を見かけたら、どうしなければならないのでしたか。近寄ってはならないのです。むしろ退かなければならない。それが律法の定めるところです。この人は明らかに律法違反を犯しているのです。おそらく周りの人々、弟子たちが制止するいとまもなく、走り寄ったのでしょう。だから逆に、この人の病気に冒された体を見て、周りの人が跳び退いたのではないでしょうか。

 そして主イエスに向き合い、ひれ伏して言いました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(2節)。この「御心ならば」というのは、原文に即して言えば、「あなたが欲しさえすれば」と言うことです。英語の幾つかの聖書を見ますと、"If only you will", "If you choose", "If you want" というように訳されていました。「ただあなたがそれを望めば」、「それを選んでくださりさえすれば」、私は清くなることができるのです。私が清くなれるかどうかは、あなたがそれを望まれるかどうか、つまりあなたの意志にかかっています、と言ったのです。

宗教改革者ルターは、このところの説教で、こう語ったそうです。「この病人が『主よ、御心ならば』と言った時、その御心について何ら疑うことはなかった。自分がいやされるということについても、何ら疑うことがなかった。」

 みなさんは、この言葉をどう受け止められるでしょうか。私たちもお祈りをするときに、しばしば「御心ならば」と祈ります。しかしそう祈る時に、果たしてこの病人と同じように主を信頼しきっているでしょうか。むしろ反対ではないでしょうか。どうして「御心ならば」という言葉が出てくるかというと、自分の祈りに、実はそれほど期待していない。「こんなわがまま言ってもきっとだめだろうな」と思いながら、「でもやっぱり祈らないよりは祈っておいた方がいいだろうから祈っておこう」、位の気持ちで、「御心ならば」という言葉が口をついて出てきてしまうのではないでしょうか。こういうのを「だめもと祈り」と言います。自分のすべてをかけていないのです。しかし自分の迷いも疑いもひっくるめて、主のもとに赴き、一切を主に委ねて主のもとに立つ。それが信仰であります。宗教改革者ルターは、この思い皮膚病人の姿の中に、言葉の中にそういう信仰、私たちの模範となるような信仰を見いだしたのでしょう。

(5)「よろしい、清くなれ」

 そうしたこの病人の大胆な信仰に対して、何が起こったでしょうか。もっと驚くべきことが起きました。誰もが近づくのもいやがる重い皮膚病です。今言いましたように、この時もおそらく他の人はみんな跳び退いたことでしょう。しかしその中でたった一人退かず、逆に手をさしのべて、この病人に触れた人がいました。それがイエス・キリストです。そしておいやしになったのです。

 実は、主イエスは誰かをおいやしになる時、必ずしもその人に触れられたわけではありません。このすぐ後に出てくる百人隊長のしもべのいやしにいたっては見てもいないのです。代理として主イエスのところにやってきた百人隊長の話を聞いて、全く遠く離れたところから、ただ一言、おっしゃっただけです。主イエスにとっては、それで十分なのです。主イエスの言葉には、それだけの力がある。この百人隊長のしもべをのいやしの物語は、高らかにそのことを告げています。

 今日の物語に帰りましょう。それでは一体どうして、主イエスはわざわざこの重い皮膚病の人に手をさしのべて触れられたのでしょうか。触れる必要はないのです。主イエスも跳び退きながら、「清くなれ」と言われれば、よかったのではないでしょうか。

 私が言いましたことをもう一度思い起こしてください。この人の深い傷はどこにあったのでしょうか。それは単に体の病気のことではありません。誰からも無視される。誰も相手にしてくれない。自分のことを人間扱いしてくれない。自分が歩けば、みんなが自分を避けて通る。自分に触ってくれない。自分でも「近づかないでください」と叫ばなければならない。そこにこそ、この人の本当の深い傷があったのです。主イエスはそのことを知っておられた。この人にとって、誰かに触れられるということが、どれほど大きな意味をもっているかを、よく知っておられた。主イエスは、この人に手を置くことによって、その深い傷をいやされたのです。

 「よろしい。清くなれ」(3節)。「よろしい」と訳されたこの言葉は、これも忠実に訳せば、「私は確かにそれを欲する」「私は確かにそれを選ぶ」という言葉です。"I do will", "I do choose". 重い皮膚病人の「もしもあなたがそれを欲しさえしてくだされば」、という願いに呼応しているのです。「そうそれが私の意志だ。清くなれ」。そう言われたのです。

(6)「誰にも話さないように」

 主イエスは、この男に、「このことを誰にも言わないように」と言われました。どうしてでしょうか。私は、これは「主イエスが、いやしや奇跡を伝道の道具にはされなかった」ということを示していると思います。主イエスはたくさんの奇跡、特にいやしをなさいました。それは私もその通り信じています。しかし主イエスは、そのことのもつ危険性も十分に承知しておられた。いやしだけが一人歩きし、「主イエスとは不思議ないやしをなさる方だ」ということになれば、多くの人が、どうにもならない位押し寄せたでしょう。もっとも主イエスは、それを用いて伝道することもできたかも知れません。そうしたら、十字架にかかって死ぬこともなかったでしょう。そのまま「本物のメシア誕生だ」と持ち上げられて大宗教になっていったことも想定できます。今日、そういう宗教がたくさんあります。不思議ないやしを見せて、信者を獲得していくのです。

 私はブラジルにしばらくおりましたが、ブラジルではキリスト教の中においてさえも、そういう教派をたくさん見てきました。テレビで伝道集会をやっていて、牧師が「イエス・キリストの名によって立ち上がれ」と言えば、それまで歩けなかった人が立ち上がって、歩き始めるのです。この人がそれまで本当に歩けなかったということを、いろんな人が証言をします。それを見ている人に「わあすごい」と思わせるのです。私は、そういうのは何かまやかし臭いと思います。私は奇跡としてのいやしを否定はしません。確かに神様の力が、今ここに介入すれば、そういうこともあるでしょう。神様にとって、そんなことは何でもないことでしょう。しかしそれを人に見せるために、あるいは人を集めるために用いてはならないし、主イエスもそんなことはなさらなかった。主イエスのなさった奇跡というのは、いつも何らかの形で「愛」ということと関係していました。愛と関係のない奇跡はなさいませんでした。ですから、荒れ野でサタンが、「お前は神の子だろう。だったら、この石をパンに変えて食べたらどうだ」と言われた時に、それをなさいませんでした。愛と関係がないからです。「お前、神の子だろう。だったらここから飛び降りたらどうだ」。飛び降りませんでした。愛とは関係がなかったからです。

 主イエスは、奇跡を見せて、いやしを見せて、人を集める、いわば栄光と誉れの道ではなく、この後、苦難と十字架への道を歩まれることになります。私たちも不思議なことをやってみせる英雄の姿の中にではなく、その苦難を耐え、十字架に死ぬ姿の中にまことのキリスト、まことの救い主の姿を見いだすことができるかどうかが問われているのだと思います。

(7)スキンシップの重要性

 ブラジルではスキンシップが豊かです。会うたびに抱き合うのです。頬をすり寄せて3回キスをします。それが日常的なあいさつです。日本に帰ってきてそれがないのが、物足りないですね。下手にやると、「セクハラ牧師だ」と言われそうですから控えています。でも私は体の触れ合いというのは大事だと思います。そのぬくもりというのは、残るのですよね。みなさんも抱き合うのはともかく、せめて握手くらいしてくだされば、うれしいです。

 主イエスは、私たちのことを思い、最もよいことを備えてくださるお方です。私たちもこの人のように、その主イエスのよき意志を信じて、そのもとに飛び込んでいく信仰をもち、大胆に歩み始めたいと思います。


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