2005・7・3

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「あなたの名を呼ぶ」

村上 伸

イザヤ書43,1-71ペトロ2,1-6

 今日の箇所は、元々、「しかし今」という言葉で始まっていたという。つまり、直前の42章18-25節を受け、それと対比して新しいことを言おうとしたのである。では、42章では何が言われているのか? イスラエル民族の過去の大きな罪と、それに対する神の裁き、すなわち、「バビロニヤ捕囚」についてである。

 かつてこの民は、「多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」(20節)ような状態で生きていた。「彼らは主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった」(24節)。その結果、紀元前6世紀に、「捕囚」という民族的悲劇を経験する。「この民は略奪され、奪われ、皆、穴の中に捕えられ、牢につながれた」(22節)とあるのはそのことである。このような形で、イスラエル民族の罪に対して「主が燃える怒りを注ぎ出した」(25節)。これが42章の内容だ。

 だが、43章に入ると調子は一変する。「しかし今、ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主はこう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(1節)。罪に覆われた過去にもかかわらず、神はイスラエル民族を見捨てない、というのである。神は、どんなことがあってもこの民を守り給う。あなたの名を呼ぶ! 「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主」(2-3節)。

 ここで問題になっているのは、自分たちの国や民族の過去の歴史をどう捉えるか、その将来をどう見るか、ということだ。今風の言葉で言えば「歴史認識」であろう。

 今、私たちの国でも、「歴史認識」に関する話題が盛んだ。とは言っても、この国が本気で、徹底的に過去の歴史と向き合っているわけではない。「歴史」をきちんと認識しようとすれば、どうしても過去の古傷にも触れないわけには行かないから、指導的な政治家たちの多くは、これを「好ましくないテーマ」と感じているようだ。この話題がしばしば中国・韓国の側から持ち出されることもブレーキになっている。過去に何度か遺憾の意を表明したことはあるが、その場合も腰が引けていて、口先では謝罪しても、それと矛盾するような行動(靖国参拝)を平気で続ける。

 その何よりの証しは、「扶桑社」の歴史教科書が検定に合格したという事実だろう。この本を作った人々は、過去の歴史のマイナスの部分に触れるのは非愛国的であり、「自虐史観」であると主張する。だから、歴史の暗部はできるだけ覆い隠そうとする。歴史はことさらに美化される。

 彼らは「自虐」に反対するが、「自虐」の反対概念は何だろうか。適当な表現は中々見当たらないが、要するに「自己正当化」ではないか。自分たちの国の恥になるようなことは覆い隠し、逆に自慢の種になるようなことを多く見つけ出して、それを誇る。このように、自分で自分を正当化する以外に自分たちを支える拠り所はないと彼らは思い込んでいる。真の神を信じない人間はそうならざるを得ない。

 聖書に展開される世界は、これと正反対である。人間は、すべてを見ておられる神の前で生きている。神の前では、自分の犯した罪を何とか隠そうと思っても、到底、隠し通せるものではない。自己正当化は不可能である。

 創世記4章にはカインという人物が登場するが、彼は自己中心的な怒りと憎しみに駆られて弟アベルを殺してしまう。弟を殺したカインは、神に追求される。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」。カインは白を切り、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(9節)と開き直って自分で自分を正当化しようとするが、神はそのような逃げ道を彼に許さない。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(10節)と彼を追い詰める。結局、カインは「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(13節)と、自らの罪を告白せざるを得なくなる。

 罪に堕ちた人類の歴史は憎しみと殺害の歴史であり、私たちは「カインの末裔」であると聖書は告げているのである。しかし、それがすべてではない。罪を告白したカインは、神に裁かれて追放されたと感じて、絶望する。「わたしが・・・地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」(14節)。だが、このように絶望したカインに対して、神はなお生きる道を示されるのである。肝心なのはこの点である。

 「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」(15節後半)。罪を告白することは、決して自虐などではない。それは絶望で終わりはしない。むしろ、罪を正直に認めて告白することが、赦しと再生への唯一の道となる。これこそ、聖書が繰り返し明らかにする慰め深い真理なのである。聖書の代表的な人々は、罪を告白することによって立ち直ったではないか。モーセがそうであり、ダビデがそうであり、ペトロもパウロもそうであった。

 イザヤ書42章から43章にかけてのダイナミックな転換も、そのことを物語っている。大胆に罪を告白して悔い改める者を神は見捨て給わない。ヨハネの手紙一1章8-9節にもある通り、これが聖書的「歴史認識」の根本なのである。

 「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」


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