2005・6・5

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「共に建てられる」

村上 伸

ヨナ書2,1-11エフェソの信徒への手紙 2,14-22

 イエス・キリストは「敵意という隔ての壁を取り壊した」(14)、とパウロは言う。なんと慕わしい言葉だろう! 敵対関係がひっきりなしに拡大再生産されている現代において、この言葉は特別に美しく感じられる。

 「ベルリンの壁」は幸いにも崩壊した。「鉄のカーテン」や「アパルトヘイト」のように世界を分断するものもなくなった。しかし、今や新たな「壁」が世界の至る所に築かれている。パレスチナとイスラエルの間に造られた、巨大で醜い壁。イラクやアフガニスタンに残された頑強な敵意という壁。各地に拡大する民族対立と、その結果としての恐ろしい大量虐殺。朝鮮半島を50年にもわたって南北に分断している38度線。あるいは、「日中」・「日韓」の間に改めて強く意識されるようになった敵意。これらの「壁」が取り壊されることを、私たちはどんなに願っていることだろう。若・貴の確執が報道されて人々が心を痛めるのも、まさにこの時代の象徴かもしれない。

 さて、エフェソ書の場合は、ユダヤ人とそれ以外の人々(異邦人)との間の敵対関係が問題であった。これには宗教が絡まっていたから根は深く、両者の敵意は最も解消困難なものであった。実際、エルサレム神殿の境内には「隔ての壁」と呼ばれるものがあって、異邦人はその壁の内側に入ることを固く禁じられていた。

 互いに敵対する二つの民族グループが和解することは、至難の業である。だが、キリストは「二つのものを一つにし」(14)、「双方を・・・一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」(15)、「両者を一つの体として神と和解させ・・・敵意を滅ぼされた」(16)という。一体どのようにして、彼はこの不可能に近いことを可能にしたのか? イエスの言葉に注目しながら、この問題を考えたい。

 たとえば、マタイ5章23-24節で、イエスはこう言われた。「あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい」

 ここで私は、とくに、「まず行って」という言葉に注目したい。この言葉には、三つの意味があるように思われる。

 第1は、イエスは供え物を捧げるという宗教的義務よりも兄弟との和解を優先された、ということである。彼は、人と人とが愛し合って共に生きることを何よりも重要だと考えられた。そのためには、場合によっては宗教的戒律を無視したり、後回しにすることも敢えて辞さなかったのである。その意味で、彼は決して原理主義者ではなかった。原理主義に縛られている限り、和解は決して達成できない。

 第2は、相手の出方をうかがって漫然と事態が良くなることを待つのではなく、気がついたら直ぐ、時を移さずに行動に出る、先ず自分が行く、ということであろう。おかしな言い方だが、この「腰の軽さ」がなければ和解は実現できない。

 第3に、今述べたことと結局同じかもしれないが、「自分が先手を取る」ということを強調したい。「先ず隗より始めよ」という。自分が先手を取って動き始めなければ何も始まらない。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(5章39節)という有名な、そして時に嘲笑されるイエスの言葉は、殴られてもいいから和解のためのイニシャティブを握る、という意味に違いない。

 以上、私は、原理主義から自由になること・時を移さず直ちに和解の行動に出ること・先ず自分が先手を取ること、という3点を強調した。無論、これには痛みが伴う。イエスはそのために十字架につけられた。肉が裂け、血が流れた。だが、和解は、ただこのような痛みを通してのみ達成される。「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊した」(14節)、とパウロが言うのはその意味である。

 さて、パウロはただ口先の言葉としてこれを語ったのではない。これは彼自身において起こった事実なのであり、彼自身はその事実のいわば「証拠」としてここにいる。すなわち、彼は以前、厳格なファリサイ派のユダヤ教徒であった。そして、自らの原理主義的な信条に従って異邦人を排斥し、キリスト教徒を迫害した。その彼が、ダマスコ途上で、「なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9章4節)というイエスの声を聞いて魂の底から震撼させられた。彼は根本的に変わった。キリスト教徒を迫害していた彼がキリスト教徒になり、異邦人を排斥していた彼が異邦人のための伝道者となった。彼の中にあった頑強な「敵意の壁」は、このようにして崩壊したのである。パウロは、「キリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができる」(18)と言うが、これは彼自身体験した事実なのだ。

 だから、私たちの世界でも、和解と一致はキリストによって必ず可能である。互いに敵対する二つの民が一つの霊に結ばれる。パウロが言うように、外国人・寄留者といった区別はなくなり、すべての人が「神の家族」(19節)となる日は必ず来る。

 これは、中世によく行われたように、他宗教を強制的にキリスト教に吸収合併し、その意味で一つになるということでは断じてない。「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節)というイエスの新しい戒めが本当の意味で実現する、ということである。すべての人が互いに相手を大切にする。互いに相手を受け入れる。そのようにして、この地上に新しい共同体が生まれ、そして成長して行く。

 また、パウロはこれを「聖なる神殿」(21節)の建築作業に譬える。石造りの場合、初めに隅に親石を、次に礎石を置き、順番に積み上げて組み合わせ、最後にアーチの頂点に「要石」をはめ込んで完成する。その「要石」がイエス・キリスト、つまり、彼の「愛」の戒めだ。それによってすべての人は共に建てられるのである。

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