「五旬祭」(1)はユダヤ人の三大祭の一つで、「過越の祭」の第2日から数えて50日目に当たる。「ペンテコステ」というのは「第50の」という意味のギリシャ語である。この日は、元来「刈入れの祭」(収穫感謝祭)であったが、後には十戒が与えられた記念日として守られるようになり、出エジプト記20章を朗読して律法への忠誠を新たに誓った。そして、図らずもこの大切な祝日に、エルサレムに集まっていたイエスの弟子たちに「聖霊」が降って、キリスト教会が誕生したのである。
一体、この日に起こったことは何だったのか?
「突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」(2)とか、「炎のような舌が分かれ分かれに現れた」(3)とある。普段は経験することのない、不思議な現象である。しかし、この現象面だけに目を奪われてはならない。
「一同は聖霊に満たされた」(4)という。これは単なる恍惚状態ではない。聖霊に満たされた弟子たちは「語り始めた」のである。聖霊降臨は、根本的には「言葉の出来事」であった。当時、エルサレムには「天下のあらゆる国々から」(5)来た人々がいたが、弟子たちは、その人たちの誰もが理解することのできる「故郷の言葉で」(6)、「神の偉大な業を語った」(11)。これが肝心の点である。とくに、かつては主イエスを裏切ったこともあるあのペトロが立ち直り、堂々たる説教をした(14節以下)。これに心を打たれた人々は「洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」(41)。新しい生活が始まり(43節以下)、その生き方は「民衆全体から好意を寄せられた」(47)。
今日、私はとくにこのことを強調したい。
「恍惚状態に入る」(ハイになる)ということを、私は一概に否定しない。それはあってもいい。キリスト教の中にも、ことさらに「霊的」な体験(異言、癒し等々)を強調する集団がある。「ペンテコステ派」がその代表だ。20世紀の初め頃アメリカで生まれて急速に成長し、やがてカトリックにも飛び火した。アフリカでは、土着の宗教と結びつく形で、今や最も強力な集団に発展している。こういうことは、一概に無視できないだろう。だが、聖霊に満たされた弟子たちは何よりも「神の偉大な業を語った」。肝心なのはこのことである。
「聖霊」は、弟子たちに新しい力を注いで、彼らが「神の偉大な業を語る」ことができるように解放した。そして今日、聖霊は私たちを解放する。何ものにも囚われず、「神の偉大な業を」語るために私たちを自由にする。これが聖霊の業だと信じる。
では、「神の偉大な業」とは何か? ペトロが説教の中で述べたように、「イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるし」(22)である。イエスが私たちの中で生き、愛の業を行ない、そのためにご自分の命をも捧げられたこと。そして神は、彼を「陰府に捨てておかれず…このイエスを復活させられた」(32)こと。これが「神の偉大な業」であり、弟子たちは皆、そのことの証人になった。聖霊降臨の日に起こったのはこのことである。
そして、それは今日私たちにも起こり得る。小さき者たちの命が踏み躙られ、力をもつ者たちが高ぶっているこの現代世界の中で、その逆のことを私たちに示されたイエス。彼に現れた「神の偉大な業」を私たちも証しし続ける。そのために、聖霊は私たちを自由にするのである。