2005・5・1

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「求め、探し、門をたたく」

村上 伸

出エジプト記32,7-14ルカ福音書11,5-13

 イエスは、「あなたがたのうちのだれかに友達がいて」(5)と弟子たちに話し始める。どこにでもいるような人を想定していたと思われる。その男が、平凡な一日の仕事を終えてベッドに入った。「世の中に寝るより楽はなかりけり・・・」などと言いながら、ようやく温まってきた布団の中でウトウトし始める。至福の時である。

 そこへ、突然誰かが外で戸をたたいた。既に「真夜中」である。どうやら近所に住む友達らしい。さすがに遠慮がちに、「友よ、パンを三個貸してくれ。私の友だちが旅の途中で私のところにやって来たのに、私には彼に出してやれるものがないのだ」(5-6節。佐藤研訳)と言う。せっかく眠ろうとしている矢先、しかも真夜中にこうやって起こされた場合、私たちだったらどうするだろうか?

神学校の学生寮で生活していたとき、似たような経験をしたことがある。ある日、故郷の津軽から林檎が箱で送られてきた。素晴らしい香り!それを、「モーさん」というあだ名の上級生が嗅ぎつけたらしい。彼は、真夜中に私の部屋のドアをたたき始めたのである。「村上さん、村上さん」。私は、既にベッドに入っていたから、最初のうち聞こえないふりをしていた。やがて諦めて行ってしまうだろう、と思ったのである。だが、モーさんは諦めない。しつこくドアをたたき続ける。とうとう私は彼を部屋に入れないわけには行かなくなった。林檎をせしめられたのは言うまでもない。

今日の譬え話でも、事態はほぼ同じような経過をたどる。その人は、初めは「うるせえなあ」と仏頂面をして、ベッドの中から邪険に応答するだけだった。「面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めてしまったし、子供たちも私と一緒に床に入っている。起きて君にパンなどをやるわけには行かないよ」。何があったって、このヌクヌクした布団から出て行くものか!この男は心を決めている。しかし、相手はその決意を上回って執拗だった。遂に彼は根負けしてしまう。

イエスが人間に対して実に温かい見方をしていたことは、この譬えのいくらかユーモラスな語り口からも分かるが、その後で彼が語った次の言葉は、もっと印象的である。佐藤研訳では、「彼は自分がその人の友人であるからといって、起きてその人にパンをやるようなことはないとしても、その人が執拗に願えば、その執拗さのゆえに、起きてその人に必要なものをやるだろう」8節)、となっている。

人間というものは、確かにエゴイストである。しかし、誰かに熱心に頼まれれば、たとえ「シブシブと」ではあっても、その頼みに応じるというところがある。つまり、人間の中には、相手の出方に応じて変わる可能性がある。これが人生の基本構造である。このことを、イエスは見抜いていた。だから、彼はこう言う。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(9節)。

このような洞察は、何もイエスに始まったことではない。既に旧約聖書の中にある。旧約聖書の中心には、神と人とは「契約」によって結ばれているという信仰があるが、「契約」とは決して冷たく厳しい関係ではない。血の通った人格的な関係であり、神も人も場合によっては「変わり得る」というダイナミックな関係である。今日読んだ出エジプト記にもあるように、モーセが必死になって神にお願いをすると、「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された(出エジプト記32章14節)。

だから、モーセはこう命じる。「あなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう」(申命記4章29節)。

さて、このように語った後、イエスはもう一つの譬えを持ち出す。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」(11-12節)。どんな親でも、「魚」や「卵」といった子供の成長に必要な物は、何とかして与えたいと願うものだ。もちろん、甘やかしてはいけない。時には我慢させることも大切だ。しかし、基本的には子供が健やかに成長することを願っている。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」(13節)。だから、「魚の代わりに蛇を」、「卵の代わりにさそりを」与えたりはしない、とイエスは言う。

「魚の代わりに蛇」とか、「卵の代わりにさそり」という言い方はいかにも極端だと思う人もいるかもしれない。しかし、旧約聖書においては、「蛇」や「さそり」は「人の命を害する悪」の代表であった(申命記8章15節)。どんな親でも、自分の子供が蛇やさそりに象徴されるような悪の力に害されることを望まない。生きるために役立つ「良い物」(13節)を与えたいと願うものだ。

では、「良い物」とは何か? イエスが、この直後に「まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)と言っているように、「良い物」とは「聖霊」のことである。そして、聖霊とは、私たちの中に働く神の力・神のいのちに他ならない。この良い物・聖霊を、真剣に、諦めずに、執拗に求めなさい、とイエスは言うのだ。

この問題に満ちた暗い世界。前途に果たして希望があるだろうかと問わずにはいられない世界。その中で、神の力・神のいのちの力が私たちの中に働いて下さるように、諦めずに、執拗に求め、探し、門をたたき続けなさい!

これが、今日私たちに与えられた神の言葉である。



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