2005・4・17

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「悲しみが喜びに変わる」

村上 伸

箴言8,22-31ヨハネ福音書 16,16-24

 今日の箇所は、主イエスが十字架につけられる直前に弟子たちに語られた別れのメッセージ、いわば「告別説教」の一部である。

 イエスは先ず、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」(16節前半)と言われる。自らの死を既に覚悟し、万感胸に迫る思いでこう言われたに違いない。だが、弟子たちは、何となく胸騒ぎはしたかもしれないが、イエスが言われたことを正確には理解しなかった。復活を暗示した次の言葉、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」という言葉も、弟子たちの理解を全く超えていた。

 だから、このイエスの言葉を聞いて、弟子たちはざわめいたのである。ちょうど、教室で先生の言葉がよく理解できないとき、生徒たちがそれを確かめるために互いに言葉を交してザワザワするように。弟子たちは互いに、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」17節)と言って、理解しようとはしたのだが、要領を得ない。特に「しばらくすると」という言葉に引っかかった。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう」(18)。結局、匙を投げて、「何を話しておられるのか分からない」と言う。このように、イエスは最後の時まで、弟子たちの無理解に囲まれていたのである。

 さて、私はここで、「しばらくすると」という言葉の意味について考えてみたい。私たちも「しばらく」と言うが、その時間にはかなりの幅がある。二、三年会わなかった後でも「しばらくでした」と言うし、「ほんのちょっと」という意味で「しばらく」と言うこともある。その点では中南米の人が「マニアーネ」と言うのと似ているかもしれない。「マニアーネ」は3分と3年の間だという。

 しかし、イエスが「しばらく」と言われたとき、それはそんなに曖昧なものではなかった。元のギリシャ語では「ミクロン」だが、これはごく短い時間のことだ。英語の聖書は a little whileと訳している。この「ミクロン」が、16節から19節までの僅か3節の間に7回も出てくる。明らかに、ヨハネは「ミクロン」を強調することによって、何か大切なことを伝えようとしているのである。それは何か?

 このすぐ後で、イエスは「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるだろう」20節)と言われた。それと関係があるのではないか。私には、そう思われる。

 悲しみや苦しみは、時間の質を変える。誰にも経験があると思うが、歯医者に歯をガリガリ削られる時、実際はそんなに長い時間ではないのに、「この先生はいつまでやるつもりなのか」と、心の中で悪態をつきたくなる。まして、大きな手術の時などは耐え難い。私は何度か入院して手術を受けた経験があるが、手術そのものは麻酔が効いているから何も苦しくない。問題はその後だ。毎日拷問が待っている。傷口からガーゼを毟り取り、抉るようにして傷の内部を消毒するのである。その時の、思わず呻く程の痛み。時間は無限に長く感じられたものだ。

 精神的な苦痛はもっと辛いだろう。旧約の詩人は、「主よ、いつまでわたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか」詩13編2-3節)という苦しい詩を書いた。何度も何度も「主よ、いつまでなのですか」と繰り返す。苦しいとき、時間は中々過ぎて行かない。

 さて今日のテキストに戻ろう。イエスは弟子たちに向かって「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」(20節前半)と言われた。実際、イエスの十字架に際して弟子たちは「泣いて悲嘆に暮れる」ことが何度もあった。ペトロは、イエスを三度も否定した後、「外に出て、激しく泣いた」マタイ26章75節)。どれ程自らの弱さを悔やみ、悲しんだことであろう。マグダラのマリアは、復活日の朝早く墓を訪れて、イエスの亡骸がなくなっているのに気づき、「墓の外に立って泣いていた」ヨハネ20章11節)という。これら弟子たちの嘆き・悲しみは、自分たちの不甲斐なさに打ちのめされたからでもあるが、根本的には主イエスを失った喪失感による。弟子たちのこの悲しみは敵対する世界にとっては喜びだ。だから、「あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ」

 だが、イエスはこう言われた後すぐに、慰めに満ちた約束を弟子たちに与えられた。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」20節後半)。あなたがたの悲しみや苦しみは、「しばらくすると」喜びに変わる! 悲しみはいつまでもダラダラと続くわけではない。必ず喜びへと転換する。「もう少しだ」とイエスは約束される。

 この転換を、イエスは子供の誕生を例にとって説明された。「女は子供を生むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(21)。この福音書を書いたヨハネは男性で、むろん、お産の経験などなかったから、この箇所は想像力で書いたのであろう。見事な想像力! 子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、「もはやその苦痛を思い出さない」と言う。苦しみは、ほとんど瞬時に喜びに変わる。

 このような転換は、私たちの身にも起こる。それはイエスの復活を信じるときだ。イエスが私たちの中に再び生き始められるとき、絶望から希望への転換、悲しみから喜びへの転換が私たちの中にも起こる。そして、「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(22)。「喜べ」(ユビラーテ)の主日、改めてこのことを信じたい。



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