2005・3・27

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「あなたがたより先に」

村上 伸

サムエル記上2,1-8マタイ福音書 28,1-10

 主イエスが十字架の上で息を引き取られたのは、金曜日の午後3時ごろであった。直ぐに日没が来る。それから翌日の日没までは安息日で、行動は著しく制約され、歩く距離まで制限されていた。その安息日は土曜日の日没で終わる。マグダラのマリアともう一人のマリアは、それを待ちかねて行動を起こした。多分、日が沈むと直ぐに町に行って香油を買ったのだろう。それをイエスの遺体に塗るために、夜明けと共に墓へ出かけた。今日の箇所の冒頭に、「週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」(1)とあるのは、そのことである。

遺体は十字架から降ろされた後、アリマタヤのヨセフという人が受け取り、「きれいな亜麻布で包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいた」(マタイ27,59-60)。その上、さらに香油を塗るのは、腐敗を防ぐために他ならない。

日本では、多くの場合火葬だから、香油を塗る必要はない。しかし、私たちは愛する者の遺骨を骨壷に納めるとき、愛惜の思いをこめて丁寧に扱う。先日亡くなった弟の孫たちは、最後におじいちゃんの白骨を優しく撫でていた。それと同じだろう。マリアたちも、生前のイエスの思い出をなるべく美しいものとして永く保ちたいと願ったのである。

さて、マリアたちが墓に着いたとき、「大きな地震が起こった」(2)。パレスチナは、日本と同じ地震の多発地帯である。この地震について、他の福音書は何も書いていないが、マタイは当時の「黙示文学」がしばしば終末の徴である地震に言及していることを思い出したのであろう。「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(2-4)と説明する。

屈強の兵士たちでさえ真っ青になったのだから、マリアたちもさぞ恐怖に震えたに違いない。それを見た天使は、彼女たちにこう語りかける。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(5-6)。これが肝心の点である!

 愛する者の死を受け入れることは、私たちには中々できない。弟子たちにとっても、主イエスの死を受け入れることは大変辛いことであった。だが、主は十字架上で確かに死に、死者として葬られた。この冷厳な事実を、私たちは避けて通れない。

私の兄は航空将校であったが、戦争の末期にソ連の戦車軍団の攻撃を受けて、満州で戦死した。尤も、その瞬間を目撃した人は誰も居ない。最後まで一緒だった友達も機関銃で撃たれて失神してしまったから、「あなたの兄さんは多分、あのときに戦死したのだと思う」と言うだけで、確証はない。そのせいもあって、母は死ぬまで兄の死を信じようとしなかった。それが母親というものであろう。

 しかし、人はいつか死の冷酷な現実を認めなければならなくなる。それができるようになると、人は次に、死者をなるべく美しい思い出の中に封印しようとする。主イエスの死後、残された弟子たちがしたことは、正にそれであった。「きれいな」亜麻布で包み、岩に掘った「新しい」墓の中に納め、亡骸に「香油」を塗って、美しい思い出が少しでも長く保たれるようにする。

 だが、天使は、「あの方はここ(墓の中)にはおられない」と言う。いくら新しい、清潔な墓であっても、その中にはおられない。彼は、全く別の場所に生きておられる。それは、ガリラヤだ、と天使は言う。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(7)

ガリラヤとはどういう場所か?

主イエスの両親は、ヘロデ大王による幼児虐殺を避け、幼いイエスを連れてしばらくエジプトで難民生活を送っていたが、ヘロデの死後帰って来て住んだのがガリラヤのナザレだった(2,22)。そこは、神殿のあるエルサレムから遠く隔たった辺境であり、「異邦人のガリラヤ」・「暗闇」・「死の陰の地」(4,15)などと呼ばれた土地である。だが、正にそのような困難な所で、イエスは「天の国は近づいた」(4,17) と宣べ伝え始められたのである。漁師をしていたシモン・ペトロとその兄弟を弟子にしたのもガリラヤ湖のほとりだった。「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(4,23)のもガリラヤである。「山上の説教」を語り、悪霊を追い出し、嵐を鎮めたのもガリラヤである。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9,36)のもガリラヤであった。

要するに、彼によってガリラヤには光が射し込んだのだ。「死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(4,16)。彼は、この暗闇の世界にも神の真実の支配が必ず来ると力強く約束し、ただ口で約束するだけでなく、愛の業と、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(8,20)と言われたほどの涙と汗をもって、「神の国の福音」が真実であることを人々に示した。それがガリラヤである。

そこへ、イエスは弟子たちより先に行かれる、と天使は言うのである。あの、ガリラヤで起こった光の業を終わらせないために、それを永遠に継続するために、主はガリラヤに行かれる。弟子たちも後からそこへ行く。復活とはこのことに他ならない。



礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる