2005・3・13

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「愛する独り子を捧げる父」

村上 伸

創世記22,1-13ヨハネ福音書 3,16-21

 アブラハムとサラの夫婦には、年老いても子がなかった。しかし、アブラハムが99歳、サラが90歳のとき、つまり、もう諦めていた頃に、子が生まれるという約束が神から与えられた。創世記17章に、そう書いてある(1)。二人とも初めは半信半疑だったが、その約束は実現してイサクが生まれる。二人は大喜びした。サラなどは有頂天になって、「神はわたしに笑いをお与えになった」(21,6)と言ったほどだ。イサクという名には、「笑い」という意味もあるからである。そしてアブラハムは、「イサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた」(21,8)。どんなに嬉しかったか、察せられる。

 ところが神は、こともあろうに、その大事なイサクを犠牲として捧げよと命じた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(2)。何ということだろう! アブラハムは胸もつぶれるような思いがしたに違いない。だが、彼は敢えてこの神の言葉に従う。新約・ヘブライ人への手紙には、「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」(11,19)とあるが、彼はそこにすべてを賭けたのであろう。薪をイサクに背負わせ、「自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った」(6)。シャガールは、深い同情をこめてこの二人の道行きを描いている(スライド)。

 何も知らないイサクは、途中で無邪気な質問をする。「わたしのお父さん・・・火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(7)。何と答えたらいいのか? 父は辛うじて、「きっと神が備えてくださる」(8)と、苦しい答えを返すだけだ。それっきり、二人は押し黙り、それぞれの思いを胸に、なおも一緒に歩き続ける。やがて、その場所に着いた。「アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」(9〜10)。正にそのとき、天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかける。「その子に手を下すな」(12)。アブラハムの手から刃物が落ちる。レンブラントは、この場面をまことに生き生きと描いた(スライド)。

 しかし、最後は殺さずに済んだからいいようなものの、愛する息子を犠牲として捧げよとは、何と無残な命令だろう。アブラハム父子は、文字通り「肝を冷やした」のだ。神が彼を「試した」(1)のだというが、簡単には納得できない話である。

学者の中にはこう解釈する人もいる。すなわち、イスラエルの民がパレスチナに住み着いた頃、先住民たちの間には初子を人身犠牲として神に捧げる宗教的風習があった。自分の子を「火の中を通らせてモレク神に捧げる」(レビ記18,21)という悪習である。この「モレク礼拝」の真似をする人が、民の中にも出てきた。そこで、イスラエル共同体はこの厭うべき悪習を厳しく禁じた(申命記12,31など)。「イサクの犠牲」の物語は、人身犠牲を禁止するための一種の祭儀的原因物語だ、というのである。

しかし、ここにはもっと大切な真理が隠されているのではないか。つまり、人の命は他者の命によって贖われる、ということである。私たちがこうして生きているのは、どこかで誰かの尊い命が捧げられたお蔭ではないか。愛する独り子イサクを捧げよという命令も、そのような生と死の深い関わりを暗示しているのである。

先週の新聞に、廣島の原爆詩人・栗原貞子さんが92歳で亡くなったという記事が出ていた。「生ましめんかな」という彼女の代表的な作品をご存知の方も多いだろう。

「こわれたビルデイングの地下室の夜だった
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめていっぱいだった
生臭い血の臭い 死臭
汗臭い人いきれ うめきごえ
その中から不思議な声がきこえてきた
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
 と「私が産婆です、私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた
かくてあかつきを待たず産婆は
血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも」。

この詩は、実は、栗原さん自身の体験に基づいて書かれたものではない。ある人の体験談を聞いて心を打たれた栗原さんが、その場面を想像して書いたのだ。だが、後でこの詩を読んだご本人は、「本当にこの通りだった」と驚いたという。この現実味は、栗原さんが生と死の関わりに対する豊かな感性を持ち合わせていたから出てきたものであろう。ある人の死が、他の人の命につながっている。この世界の根底には、このように深い生と死のつながりがある。人は、決してバラバラに生きているのではない。「生ましめんかな / 生ましめんかな / 己が命捨つとも」。

第二イザヤに、「主の僕」と呼ばれる不思議な人物に関する歌があるが、それも同じである。「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(53,5)。また、新約聖書は至る所でアブラハムのあの深刻な経験と主イエスの十字架とを結びつけている。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3,16)という有名な言葉はその典型であろう。パウロも言っている。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8,32)。受難節に当たって、この秘儀に思いをひそめたい。



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