2005・2・20

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「大魚の腹の中にいたヨナ」

村上 伸

ヨナ書2,1〜11マタイ福音書12,38〜42

 「何人かの律法学者とファリサイ派の人々」、つまり、ユダヤ教の指導者たちがイエスのところにやって来て、「先生、しるしを見せてください」(38)と要求した。イエスの評判が高いので彼らも関心は持っていたが、指導的立場にある者として安易に新参者を認めるわけにいかない。距離を置いてイエスの行動に注目していた。その彼らが、思い切って正面から「しるしを見せよ」とイエスに要求してきたのである。

 「しるし」とは何か? 「保証」のことである。「証拠」と言ってもいい。あなたを信用してもいいが、今一つしっくり来ない。いかがわしい人間ではないという動かぬ証拠を見せてくれないか。そうしたら、あなたを信用しよう、というのだろう。

 だが、誰かを「信じる」のに証拠など要らない。信じるということは、相手の真実に動かされることである。シモン・ペトロとその兄弟アンデレがガリラヤの湖で漁をしていたとき、イエスが通りかかって「わたしについて来なさい」マタイ4,19)と声をかけた。すると、「二人はすぐに網を捨てて従った」(20)という。従って行って、将来どうなるか。確かな保証は何もない。ただ、「この人に賭けてもいい」と思わせる真実がイエスにあったのだ。「信仰とは賭けである」(パスカル)。

 だからイエスは、これら律法学者たちの「しるしの要求」に対して、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」(39)と答えた。さらに、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と、ニベもない。

 ここで預言者ヨナについて少し述べておこう。旧約聖書に『ヨナ書』という魅力的な物語がある。その成り立ちなど、詳しいことはよく分からないが、恐らく紀元前5世紀以降に成立したと考えられている。話の内容は、以下の通りである。

 ヨナは神から命令を授かる。「大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしに届いている」(1,2)。だが、彼はこの命令に背く。船に乗って逃げ出し、その船は大嵐に遭って沈みそうになる。船乗りたちに見つかったヨナは潔く自らの責任を認め、嵐を鎮めるために自分を「海にほうり込め」(12)と言う。ヨナは放り込まれて、「巨大な魚」(2,1)に呑み込まれる。三日三晩、その魚の腹の中で祈っていた。イエスが、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいた」(40)と言われたのは、このことだ。

 らちもないホラ話だと思う人もいるかもしれないが、実際にこのような体験をした人が19世紀のイギリスにいたという報告がある。ある漁師が、仲間と鯨を取りに行った。船は鯨の尻尾で引っくり返され、男はその鯨に呑み込まれる。狭いヌルヌルした管を通って池のような所に落ちた。ひどく蒸し暑い(鯨の体温は42℃)。それに猛烈な臭気で気を失う。時々目が覚めたりしている内に、うまく仲間の漁師たちがその鯨を捕まえた。腹の部分が異様に盛り上がっている。そこで、注意深くメスで裂いてみると、中から半死半生のその男が出てきた。胃酸に焼かれて全身の皮膚が変色し、それは生涯消えなかったという。以後、この漁師は「ヨナ爺さん」と呼ばれた。

 さて、ヨナの物語に話を戻すと、彼は三日後に鯨の腹から吐き出された。気がつくと、そこはニネベの都のすぐそばだった。所詮逃れられないと観念した彼は、気を取り直して都に行き、神に命じられた通りに、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」(3,4)と叫ぶ。すると、すべての人が彼の説教を聴いて悔い改め、「悪の道から離れた」(10)。神は思い直し、「災いをくだすのをやめた」。ところが、ヨナは面子を潰されたと思って腹を立て、隠遁してしまう。それからの話も面白いのだが、割愛する。

 イエスが今日の所で「ヨナのしるし」と言ったのは、ご自分が死んで墓の中にいたことを示唆するためであった。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子(=イエス)も三日三晩、大地の中にいる」(40)。そして三日目に復活する。「しるし」といえば、これ以外にはない。そして、それは「ヨナにまさるもの」(41)なのに、律法学者たちはイエスを受け入れようとはしない。だから彼らは、神の裁きの時にニネベの人々によって断罪されるだろう、とイエスは言うのである。「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた」(41)からだ。

 さらに、イエスは「南の国の女王」(42)にも言及した。「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た」。これは明らかに、列王記上10章に出て来る「シェバの女王」を指している。列王記には、「シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやってきた」(1)とある。初め彼女は、「ソロモンといっても、どれ程の者か」と、タカを括っていたのではないか。「ソロモンのところに来ると、彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせた」とあるところからも、この女王が聡明で、プライドも高く、勝ち気な気性のひとだったと察せられる。だが、「ソロモンはそのすべてに解答を与えた。王に分からない事、答えられない事は何一つなかった」(3)。彼女は、ここでソロモンに参ってしまう。そして、「わたしは、ここに来て、自分の目で見るまではそのことを信じてはいませんでした。しかし、…お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています」(7)と告白する。

 この故事を取り上げて、イエスは律法学者たちの高慢を批判するのである。この女王はソロモンの知恵を聞くために、「地の果てから来た」(42)ではないか。それに比べて律法学者たちにはそのひたむきさ・謙虚さがない。だから、「南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう」(42)。

 今日のこの箇所は、ヨナやシェバの女王などを引き合いに出しながら、十字架と復活の主イエスに対するひたむきな信頼を教えているのである。



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