2005・2・13

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「善悪を知る?」

村上 伸

創世記3,1−19ヘブライ人への手紙4,14−16

 お気づきの方もおられようが、創世記の1章2章とでは明らかな不一致がある。先ず神の名が違う。新共同訳聖書は、1章では「神」、2章では「主なる神」と訳しわけている。元来「エロヒーム」、「ヤハウェ」と別々の名だからだ。また、人類の創造に関しても、1章では「男と女とに」(27)創造されたとあるのに対して、2章では男が先に造られている。その「あばら骨の一部を抜き取って」(21)女が造られたのである。

 この違いは、聖書学者たちの説明によれば、資料が別々であったためという。1章が採用しているのは紀元前5世紀頃の資料で、年代・月日・統計・祭儀などに関心を寄せており、祭司のように荘重な文体を持つ。そこで、「祭司資料」(P)と呼ばれる。

それに比べて2章から4章まではかなり素朴な書き方だ。「主なる神は、土の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(2,7)とか、「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」(3,8)といった、擬人法的な表現も至る所に見られる。この素朴さは、そこで使われた資料が「祭司資料」よりもずっと古いからだ、と学者たちは言う。神の名が「ヤハウェ」であるところから「ヤハウェ資料」(J)と呼ばれる。紀元前9世紀頃に南王国ユダで成立したと考えられる最古の資料だ。この「ヤハウェ資料」の代表的なものが、これから読む「楽園追放」の物語なのである。

この「楽園追放」は、ミケランジェロやデューラーなど、多くの画家が好んで取り上げたテーマであった。いくつかの絵をスライドでお見せしよう。

初めに、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(1)とあるように、蛇の登場である。「賢い」とあるが、口語訳聖書では「狡猾」となっている。既にこれが、蛇に対する根強い嫌悪感の表現だ。もっとも、稀には「蛇が大好きだ」という人もいる。私の友人に、小さな蛇を愛して常にポケットの中に入れて持ち歩く人がいた。「この冷たいところが何とも言えないのだ」という。だが、これは例外であって、蛇は昔から多くの人に嫌われ、恐れられてきた。あの独特なヌメヌメした長い体や目つき、チロチロと舌を出す大きな口、物陰からいきなり襲いかかる毒蛇の恐ろしさ、音もなく忍び込んでくる陰湿な感じなどが嫌われる原因であろう。

さて、この物語では、蛇は誘惑者である。先ずエバに、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(1)と問いかける。つまり、2章16節「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という神の言葉を逆用しているのである。実に巧妙で危険なワナの仕掛けである。「本当に神様がそんなことを言ったのか?」 誘惑者はいつでも、このような疑い深い問いによって不信の種を蒔く。

この蛇の問いに対して、エバは、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(2〜3)と答える。この時点では、彼女はまだ神の禁止命令に忠実に従っている。

だが、誘惑者というものは執拗だ。シェークスピアの悲劇『オセロー』には、イヤーゴという男が出てくる。愛と信頼で結ばれた高潔な将軍オセローと貞節な妻デズデモーナの間に、まことしやかな言葉で巧みに不信の種を蒔く。悲惨な結末が訪れるまでそれを止めようとしない。

蛇もそうだ。しつこく食い下がる。それを食べても「決して死ぬことはない」と断言する。続けて、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」(4-5)と言う。すなわち、神が「食べるな」と言ったのは、ただ自らの知恵や能力を独占できなくなることを恐れてそれを防ごうとしているだけなのだ、言ってみれば神の独占欲だ、と中傷したわけである。

だが、「神のように善悪を知る」ということは、人類にとって抵抗しがたい魅力であった。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」(6)。それに、物事の善悪をわきまえることがそんなに非難さるべきことだろうか? エバとアダムはそう考えたのかもしれない。まんまと蛇の誘いに乗って善悪を知る木の実を食べてしまう。だが、それが楽園追放の理由となったのは、一体何故だろうか?

ここで重要なことを指摘しておきたい。聖書の用語法では、「善悪」という対立概念を並べて書くと、「すべて」を意味する場合が多い。そして、「知る」とは「できる」とか「支配する」という意味である。従って、「善悪を知る」とは、「全知全能」を意味する。「神のように」と付け加えられていることも、これを裏書している。

「善悪を知る」という言葉が「全知全能」を意味するとなると、それを求める人間の衝動の中には危険な芽が隠されていることになる。このことを蛇は見抜いていたに違いない。そして、それを上手く利用した。ここに誘惑の本質がある。

神が人類に禁じたのは、「物事の善悪をわきまえる」ことではない。それは、むしろ望ましい。だが、自分が「神のように」思い上がること、何が善で何が悪かを勝手に支配しようとする高ぶり。これを神は禁じられる。そのように高ぶるとき、実は人類は堕落するのである。ヒトラーがその実例だ。エバとアダムも、高ぶったために「自分たちが裸であることを知り」(7)、イチジクの葉で腰を覆った。つまり、無垢な自然さを失ったのだ。そればかりか、「主なる神の顔を避けて」(8)木の間に身を隠した。神によってお前は「どこにいるのか」(9)と追及されて怯える存在となり、遂には共に生きるべき二人が互いに罪をなすり付け合うところまで堕落する。

これは昔話ではない。現代世界の問題の深い根を抉る話なのである。



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