2004・12・26

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「肉となった言」

村上 伸

創世記 1,1-5ヨハネ福音書 1,14-18

 ヨハネ福音書は、謎めいた・雄渾な一句で始まる。文語訳で読むと、「太初(はじめ)に言あり、言は神と偕にあり、言葉は神なりき」(1)。近頃の日本の政治家たちは、なぜかこの表現が好きで、よく利用する。例えば、あることを既定事実のようにして話を進めるやり方を皮肉るとき、「はじめに…ありき」では困るなどと言う。だが、ヨハネが「太初に言ありき…」と書いた時、それはそのように軽い意味ではなかった。

 ゲーテの『ファウスト』には、ファウスト博士がこの句の意味についてあれこれ考え込む場面がある。どうもよく分からない。最後に、彼は「行為」(Tat)という言葉を思いついて当てはめてみた。そこで漸く納得が行った。「太初に行為ありき」。これなら分かる、というのである。言葉をなりわいとし、あれだけの作品を残して多くの人に影響を与えたこの文豪でさえ、心のどこかで「重要なのは言葉よりも行為だ」と考えていたとすれば悲しいことだが、反面、それ程この言葉にこだわったのは、その重要性に気づいていたからであろう。流石だと言う他はない。

作家でも詩人でも、そして説教者も、およそ言葉を大事にしている人なら誰でも、とくに最初の一句に精魂を傾けるものだ。島崎光正は、「わたしの言葉が/わたしをむしり取る」と書いた。「わたしの言葉にはわたしの肝臓や血や爪が入っている/言葉はわたし自身なのだ」と。あるいは、「耐えきれなくなった魂が/言葉にのって溢れ出る…」とも。

ヨハネもまた、渾身の力を込めて「太初(はじめ)に言あり、言は神と偕にあり、言葉は神なりき」というこの最初の一節を書き下ろしたと思われる。ここに彼の全信仰がかかっていたと言ってもいい。ヨハネは続けて言う。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(3)。ここで、彼は明らかに創世記第1章を念頭においていた。だから私は、今日の旧約聖句に創世記1,1−5を選んだのである。

そこには、「初めに、神は天地を創造された…神は言われた。『光あれ。』こうして光があった」(1−3)とある。「言」による光の創造だ。続けて神は、「水と水を分けよ」(6)という「言」によって混沌の力を制御した。さらに神は、「乾いたところを地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた」(10)。野菜や穀物や果物を「地に芽生えさせ」(11)、太陽や月や星を造って「昼と夜を治めさせ」(18)「生き物が水の中に群がり」、「鳥が天の大空の面を飛ぶ」(20)ようにさせた。そして、「家畜、這うもの(爬虫類)、地の獣(猛獣)(24)を造り、最後に「御自分にかたどって人を創造された」(27)。これらすべては、「…あれ」という神の「言」によった、と創世記の筆者は書いた。

これは単なる神話ではない。神の「言」とは、神の「愛の意志」である。万物は「神の愛の意志」によって存在へと呼び出された。また、神の「言」とは、それら造られた物を決して見捨てないという「約束の言」・「祝福の言」でもある。万物に先立って神の愛があり、神の約束・祝福がある。この愛と祝福の約束によって万物に命が与えられ、そして保持されているのである。それなしに、偶然に・無意味に存在しているものは、天にも地にも何一つない。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とヨハネが言うのは、そういう意味である。

だが、ヨハネはここで、単に天地創造に際して神の「言」が創造的な力を発揮したということだけを言っているのではない。彼は、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」 (4−5)と言うが、この「言」というところを、「イエス・キリスト」と置き換えて読んでみると、意味は明確になるであろう。「主イエスの内に命があった」。主イエスには愛の命が溢れていた。その愛の命が、苦しみの暗い闇の中でうめいている人々をどんなに明るく照らしたことか!イエス自身こう言われたではないか。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8,12)

だが、ヨハネはさらに続ける。「暗闇は光を理解しなかった」(5)。これは主イエスの苦難を指している。暗闇に支配されたこの世は、光であるこの方を理解せず、十字架にかけて殺してしまった。一切は、この方に現れた神の愛によって存在へと呼び出され、そこに輝く光によって照らされ、命の喜びと希望を与えられているのに、暗闇であるこの世はその光と命を拒絶した、というのである。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(11)

 こう述べた後で、ヨハネは今日の所で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14)と言う。これは、主イエスの誕生を意味している。先週、私たちはクリスマスを祝ったが、神の愛は単なる「理想」や「観念」ではない。この方の生身の肉体において「現実」となったのである。

しかし、それだけではない。「肉」は、聖書ではしばしば人間の「弱さ」を意味する。「肉なる者は皆、草に等しい。…草は枯れ、花はしぼむ」(イザヤ40,6)とか、「人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風である」(詩編78,39)と言われている通りである。主イエスは正にその点で、私たちと同じ人間になられたのである。ヘブライ人への手紙4章15節に、主イエスは「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様試練に遭われた」とある。この深い慰めこそ、「言が肉となった」ということの意味なのである。



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