ルカ福音書1章29節によれば、天使がマリアに受胎を告知したとき、彼女は「戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」という。これは当然だろう。彼女は「ヨセフという人のいいなずけ」(27)ではあったが、まだ結婚したわけではない。身ごもったことが知れれば、ヨセフは何と思うか? それに、心ない噂が周囲に広がるかもしれない。あれこれ思って、彼女の心は不安に襲われたであろう。この辺の微妙な事情をヨセフの立場から書いたのがマタイだった。「ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1,19)。
だからこそ、マリアは必死の思いで天使に反問したのである。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34)。この言葉には、彼女の驚きや不安や恐れがぎっしり詰まっている。
しかし、この問いに対して、天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(35)と答えた。そして、「神にできないことは何一つない」(37)と断言する。この天使の言葉がマリアを圧倒した。遂に彼女は、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38)と告白する。
その後でマリアは、山里に住む年老いた親類の女性エリサベトを訪問する。この人は同じように不思議な経緯をたどって、「年をとっているが、男の子を身ごもり・・・不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になって」(36)いた。「まだ」身ごもる筈のないマリアと、「もう」身ごもることができない筈のエリサベトが、奇跡的に子を宿したのである。そして、この二人の女性が出会った時、エリサベトの「胎内の子は喜んで踊った」(44)という。不安や疑いや恐れは跡形もなく消え去り、二人は静かな喜びと祝福に満たされる。美しい「マリアの賛歌」(46-55節)が歌われたのは、この時のことであった。
ところで、私は今「奇跡的」と言ったが、『広辞苑』で「奇跡」を引くと、「常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの」とある。この意味で、処女降誕は確かに「奇跡」である。そして多くの神学者は、「それは生物学的には不可能だが、神は全知全能だから、人間の理性を超えた仕方でそれを可能にする。それを受け容れるのが信仰だ」と言う。
それは私も認めよう。だが、「マリアの賛歌」でたたえられているのは、単に「奇跡」としての処女降誕だろうか? 「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(48)とか、「力ある方がわたしに偉大なことをなさいましたから」(49)という表現は、確かにそのことを暗示しているようにも見えるが、私にはむしろ、後半の「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(51-53)という言葉と結びつけて「奇跡」を理解した方が良いように思われる。
処女が身ごもったのが奇跡なのではない。自己中心主義(エゴイズム)の支配するこの暗い世の中に、イエスのように愛に満ちた方が生まれ、その愛を一生貫いたことが奇跡なのだ、とルカは言いたかったのではないか。
ルカはイエスがどのように生きたかを知っていた。そこから振り返って彼の福音書を書き、主イエスの誕生の意味について書いた。イエスのように他者を愛し、自らを低くして他者に仕える方がこの自己中心的な世界の真只中に生まれたということ。そして、今日食べる物にも事欠くような貧しい人々に目を留めて、彼らと共に生きたということ――これは「奇跡」だ、とルカは信じたのだ。処女降誕の物語は、この内容を盛った器に過ぎない。
この賛歌の最後のところで、マリアは、この奇跡が「私たちの先祖におっしゃったとおり」(55)に実現したと言っている。「ハンナの祈り」(サムエル上2,1-3)を読んでも分かるように、これは先祖に約束されたこと・代々の先祖たちが待ち望んだことであった。それが今、主イエスにおいて実現したのだ! 賛美せずにいられようか。
アッシジのフランチェスコは死の数ヶ月前、有名な「太陽賛歌」を書いた。主をほめたたえよ。兄弟なる太陽を造られたがゆえに。姉妹なる月、星のため、兄弟なる風や空気や雲のため、澄んだ空やすべての季節のため、姉妹なる水のため、兄弟なる火のため、母なる大地のため、果物や色とりどりの花、野の草のために主をほめたたえよ。
彼は、神がこれらのものをお造りになったことを「愛の奇跡」のように感じていた。だから彼は最後に、「主をこそほめたたえよ。人をゆるす心を持った人たちのため、苦しみや悩みを耐える人たちのため」と歌った。この暗い世の中に「人をゆるす心を持った人たち」がいるということ、「愛のゆえに苦しみや悩みを耐える人たち」が生きているということ。これは奇跡に他ならない。その意味で最大の奇跡が主イエスの誕生なのである。マリアが「わたしの魂は主をあがめる」と歌ったのはそのためであり、私たちがクリスマスを祝うのもそのためである。