2004・11・28

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「イエスは子ろばに乗って」

村上 伸

ゼカリヤ書 9,9-10マタイ福音書 21,1-9

 

 アドヴェントに入り、クランツの蝋燭に一本火が灯された。今日は『日々の聖句』に従ってマタイ21, 1−9について語りたい。マタイはここで、旧約のゼカリヤ書9,9を引用している。メシアが「ろば」に乗って来る、と預言されている箇所だ。21日の礼拝後に皆さんと靖国神社の「遊就館」を見学した際に考えたことも、これと無関係ではないし、24日の「祈り会」では、ゼカリヤ書9章を学ぶことになっていた。このめぐり合わせは、我々に何か重要なことを暗示しているように思われる。

 そこで、今日のテキストであるマタイ福音書21章に目を向けよう。

主イエスはこの直前の20章18節で、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである」と述べて、自らの苦難を予告した。これを覚悟して彼はエルサレムに入って行く。その時、彼は「ろば」の子にまたがっていた。それが今日読んだ21章の始まりである。

主イエスが「ろばの子に乗って」エルサレムに入ったということは、四つの福音書すべてが記しているが、ゼカリヤ書と関連づけているのはマタイとヨハネだけだ。とくにマタイは、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」(4)という解釈を加えた上で、9章9節後半を引用している。

一体、「預言者を通して言われていたこと」とは、何か?

それはゼカリヤ書を読めば分かる。先ず、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る」(9節前半)とある。預言者、紀元前6世紀のイスラエル民族に向かって、お前たちは今苦しみの中にあるが、やがて訪れる終末の時には「あなたの王」が、すなわち真実の支配者・メシア(救世主)が来る、そして必ず救って下さる、と約束したのである。そのメシアは、「神に従い、勝利を与えられた者」、つまり、神の正義を実現して悪に勝利する方だ、という。ここまでは他の預言者たちと変わらない。

ゼカリヤのユニークさを物語るのは、その次の言葉である。メシアは「高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」。幾分ユーモラスで、ほのぼのと温かく、しかもその情景がはっきりと目に浮かぶような言葉だ。

私は小学生の頃、一年だけ満州で暮らしたことがある。そこではよく「ろば」を見かけた。中国では、今でも奥地に行けば「ろば」がいるのではないか。体が小さいから、荷物を背負わされた姿は痛々しいほどだ。優しい目をしている。耳が不相応に長いので「ウサギウマ」とも呼ばれる。頑固な一面もあって、文語の詩編に「弁(わきま)えなきうさぎうま」(32,9)と言われているように、一旦つむじを曲げたら梃子(てこ)でも動かない。私もそういう場面を見たことがある。

しかし、「ろば」は矢張り「柔和」と「平和」の象徴だ。「軍馬」と違って、戦争の時にはまるで使い物にならない。しかし、そこにいるだけで周囲を和ませる。

先日の新聞に面白い記事が出ていた。赤ちゃんを小学校のあるクラスに連れて行った、というのである。すると、そこに赤ちゃんがいるというだけで、普段は喧嘩やいじめが絶えないクラスにも優しい雰囲気が広がり、穏やかな平和が全体を支配するようになった。この経験をこれからの学級経営に生かせないだろうか、とその記者は提案する。むろん、そこには難しい問題もあるだろうが、この着眼は素晴らしい。

赤ん坊のように全く無力で弱い存在が、むしろその「無力さ」によって周囲の世界を変えることがあるのだ! メシアが「ろば」に乗って来るというのも、そういうことではないだろうか。

我々人類を本当の意味で救う方、我々に真の平和(シャローム)を来たらせるメシアは、鼻息も荒く疾走する体格の頑丈な「軍馬」や、人々の暮らしを蹂躙する「戦車」に乗っては来ない。子ろばに乗って来る。

「アメとムチ」という言い方がある。我々の世界ではしばしば、飴をしゃぶらせるように相手をおだてて言うことを聞かせる「懐柔策」か、それとも、鞭でひっぱたくようにして相手を無理やり屈服させる「強攻策」か、どちらかだと言われる。アメリカの「ネオコン」の政策が、これの典型だ。

だが、見え透いた「懐柔策」は必ず破綻する。結局は「先制攻撃論」に代表されるような「強攻策」に変わるのがふつうである。だが、暴力は真に問題を解決する道ではない。圧倒的な軍事力によって一旦は強引に敵を叩き潰したとしても、それは憎しみを増幅させ報復テロを拡散させるだけで、真の平和は限りなく遠ざかる。ファルージャがその実例だ。人類はこれまでも、ヴェトナムで、パレスチナで、チェチェンで、そしてその他の地域で、幾たび同じ失敗を繰り返して来たことだろう。

預言者ゼカリヤは、神は「エフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれる」と告げる。これは、核兵器だけではなく、あらゆる軍備の廃絶が神の意志であることを指し示す。そして、その時に初めて、「諸国の民に平和が告げられる」(10)。このメシアの平和は、「海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。ペルシャ湾から地中海まで、ユーフラテス河からナイル川の向こうまで、つまり全世界にくまなく行渡る。――これが預言者の夢なのであり、そしてそれは、主イエスの愛において既に始まっている。アドヴェントはその完成を待ち望む時なのである。



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