2004・10・31

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「イエスの命が現れるために」

村上 伸

ゼカリヤ書 8,16-17コリント第二 4,7-15

 ギリシャでは、朱色の地に黒の文様が描かれた独特の古代の陶器の破片が多く出土する。私の想像だが、パウロはコリントに滞在中、日常生活の中でそれらの焼き物を使い、時には床に落として壊したりもしたのではないか。そこから、弱さ・脆さを抱えた人間存在を「土の器」に譬えたのだろう。むろん、旧約聖書にも被造物の脆さを陶器に譬える伝統がある。「死ぬはずのこの身」(11)というのも同じ意味だ。

 先週、新潟県の中越地方を大地震が襲った。忍耐強い越後の人々がこれまで営々と築き上げてきた生活基盤は一挙に崩れた。人間は体だけでなく、その生活全般にわたって「土の器」のように脆いものだと痛感する。科学技術の粋を集めて建設された新幹線は脱線して使い物にならなくなり、道路は寸断され、山は崩れ、電気も水道もガスも止まった。他人事ではない。「明日はわが身」かもしれないのである。

 しかしパウロは、「だから駄目だ」とは言わない。我々はこの土の器に「宝を納めている」(7)と言う。「宝」とは、我々自身ではなく神から来る「並外れて偉大な力」のことである。それが、「土の器」のような我々の中にも働いている。

 地震のとき、車で家路を急いでいた母親と二人の幼い子供が消息を絶った。しばらくして、崩落した土砂の下に車ごと生き埋めになっているのが発見された。レスキュー隊の必死の働きにもかかわらず母親と長女は助からなかったが、2歳の男の子だけは奇跡的に生きていて、92時間ぶりに救出された。このニュースは我々を感動させた。優太君は、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8)というパウロの言葉を実証してくれたように思えてならない。むろん、パウロが言う意味と直ちに同じではないが、少なくともそれを暗示している。各地から駆けつけたボランティアの善意も、神が人類に与えて下さる「並外れて偉大な力」の一つであろう。

 このことについて、最近の経験から報告したい。23日(土)の午後、私は鹿児島からフェリーで錦江湾を渡り、対岸の鹿屋伝道所の礼拝で説教をした。会衆は20人ほど、その半分は近くの国立療養所「敬愛園」で暮らす元ハンセン病患者の人たちであった。礼拝後しばらくお茶を頂きながら懇談した。その人たちは曲がった指や皮膚の引きつれなどを示しながら、口々にこれまでの辛い経験を語ってくれた。そのときの底抜けの明るさに、私は深い感銘を受けた。それは、正に「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(10) という信仰から来ているように思われた。それは、彼らにとっては確かな現実なのである。「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」(11)、また、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させてくださる」(14)というパウロの信仰は、そのまま彼らの信仰なのである。

 

 さて、今日は「宗教改革記念日」だから、以上に述べたことをルターの経験に即してさらに掘り下げてみたい。

 彼は志を立ててエルフルトの修道院に入ってから、「神の義」を求めて努力したが、努力すればするほど悩んだ、という。自分はどんなに努力しても「神の義」を実行できるような人間ではない。だから、義なる神は不義なる自分を厳しく裁くだろう。この恐れが彼の中から喜びも希望も奪った。「義という言葉は、私にとって大変厭わしく感じられた」と述懐しているように、彼は「生ける屍」のようになった。

 そのような時に、彼は一つの聖句と出会う。ローマの信徒への手紙1章17節であった。新共同訳では残念ながら本来の力が感じられないから文語訳で読みたい。
「神の義はその福音のうちに(あらは)れ、信仰より出でて信仰に進ましむ。(しる)して、『義人は信仰によりて生くべし』とある如し」

 ルターはこの言葉の意味を理解しようと「昼も夜も思索していた」。その末に、彼の心にひらめいたことがある。「神の義」という言葉の意味は、義なる神が不義なる人間を徹底的に追及して裁く、ということではない。そうではなく、「憐れみ深い神が、われわれを信仰によって義として下さるということである」と彼は書いている。続けてこう書く。「ここで私はまさに生まれ変わったように感じた。そして開かれた門を通ってまさに天国に入ったように感じた。そのとき、たちどころに、全聖書が私にとって全く別の姿を示すに至った」。

 引用を続ける。「以前に私がこの『神の義』という言葉を憎んでいた憎しみが大きかっただけ、それだけ一層大きな愛をもって、私はこの言葉を、私にとってきわめて甘美な言葉として称揚した。このようにして、パウロが記したその箇所は、私にとってまさに天国への門となった」。

 人生になんの喜びも希望もなく「生ける屍」のようであったルター、「土の器」でしかなかったこの人の中に、神から来る「並外れて偉大な力が」納められた!この死から生への転換の経験が、宗教改革の原動力となったのである。

後にヴォルムスの国会に召喚されて自らの主張を撤回するように求められたとき、彼は生命の危険を承知しながら、「われここに立つ。われかく在らざるを得ず。神よ、われを助けたまえ。アーメン」と言って要求を拒否することができたのも、「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」と信じていたからであろう。



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