「出会いから何が始まるか」という題で、皆さんと共に代々木上原教会の日曜礼拝を守りたいと思います。
「出会い」から何が始まるか。私自身の若き日以来、一人のキリスト者として半世紀に渡って若き人々と学びを共にし、また多くの方々との様々の触れ合いの中で生きてきて、深く気付かされたことを、主としてヨハネ8:1-11をご一緒に学ぶことを通して考えてみたいと思います。
青春のとき(青年期)は、まさに人間としての第二の誕生のときです。私自身そうだったのですが、自分の内そして外の世界がいろんな意味で見え始めます。人間らしく生きるとはどういうことか、これで良いのか、世の中は間違っているのではないか、疑問が雲のように湧いてきてどうしようも無く大揺れに揺れる。しかし、一方ふと私はやっぱり私なのだということに気付き、「わたし」と向かい合っている「あなた」を発見する、今そして自らの過去、周囲を初めて深く省みると共に未来に思いを馳せる、そんなことの起こるときです。一人の人間としての出発点に今立っているのだということにハッと気が付くのです。しかしこの人間としての目覚めは、思えば、孤独な思索の末というのではなく、勿論それもありますが、実は人と人との出会いということを抜きにしては考えられないといってよいでしょう。
今の時代、若者をめぐるさまざまなことが言われますが、その同じ若者に直(じか)に触れていて、私はふと彼らの心の柔軟さ、真剣なまなざしに心打たれることがあるのです。若者は若いだけそれだけこれということ、この人こそという人に出会うと、世慣れしてしまった年配のものの持つような先入観、偏見など、そんなものにとらわれないで、鋭い純なる感性をもって、ひたむきにその人、そのことにぶつかってゆくのです。そこで一つの出来事が起こるのです。彼らは心が柔らかいのです。この私の方が若い人に触れて、どんなに既成観念にとらわれているかを知らされたことでしょうか。むしろ、こちらの目が開かれる思いをしたことが幾度もあったのです。
先入観無しにパツと相手を受けとめる、本当に相手の気持ちをそのものとして受け止めるということで、溌剌たる若き人たちのそれと比べて、私の心にほとんど私のすべてを圧倒し、変えてしまうほどに迫ってくるのが、福音書のイエスです。これは、私なりの若き日以来の様々の経験を通して、聖書に心ひかれ、持続して学ぶ中で気づかされ、知らされたことです。福音書のイエスに心を込めて対面する、そういう姿勢で学んでいると、本当に人間らしいいのちの輝きに溢れた一人の人が、私の前に立っておられることに気づかされます。福音書は、イエスという一人の人間をめぐる物凄い出会いの人間ドラマだと言えるように私は思います。
このイエス、彼は一つの宗教の教祖、大人物、大説教家などというのとは凡そ異なって、むしろ"聞く人"、巷にあってごく普通の、いや誰からも相手にされないような、悩み苦しみ、身も心も病んでいる人々の傍らに共にいて、彼らの言葉をじっと聞く、むしろ自身は言葉数の少ない人だったように私は感ずるのです。これは私なりにじっくり学んだ末に、もう一度すっかり宗教特有の夾雑物を捨て去ってそこで見いだしたイエス像です。じっと相手の言うことを聞く、いや言葉にならない、しかしその人の存在そのものが語っている声ならぬ声が、彼には聞こえてきます。彼の相手、それは誰も自分を分かってくれないと思い込んで心を閉じているような人たちでした。いや彼イエスが彼らの相手になるのです。相手の心の中に土足で立ち入るのとは正反対に、相手の心をまるごとそっくり受け止める、そして語るのです。そこでイエスとその相手の間に何ごとかが起こるのです。
これは、イエスが愛の人だったから相手も変わったのだということとはちょっと違う、と私は思います。イエス自身が自分でも苦しみ、「神様何故ですか」と叫びながら、苦しんでいる人の中に心からの共感をもって全身で入ってゆく、そんな中で、神はやっぱり愛なのだ、苦しんでいる人の傍らにいつも共にいてくださる、いや代わって苦を負ってくださる方のだということを本当に知らされていったのではないか。誠実な共苦のただ中で、イエスに神の声が聞こえてくる、そして彼はそれを語るのです。苦しむものだけがイエスの心を直感するのであり、この心の行き交いの中で人の心は燃える。そういうことが起こる。だから神の愛がイエスと苦しんでいるその人の間にはたらき、人を変えるのだといった方が良いでしょう。
ヨハネ8章の「姦通の女」の物語、イエスをめぐる一つのエピソードですし、福音書の中でも最も知られた話で、深く心に響きます。
この話、ここではイエスが受難の出来事の待っているエルサレムに入ろうとされた時のこととして出てきます。大勢の人々がイエスのおことばを一言でも聞こうと集まっていました。そこにユダヤの民衆の指導者と自他共に見なしていた律法学者、ファリサイ派の人々が一人の女を引き立てて来たのです。
「先生、この女は姦通の現場を押さえられたのです。モーセは律法の中で、このような女を石で打ち殺すように命じていますが、あなたは何と言われますか」。どのように答えても、律法かローマの法に反します。殺すなと言えば律法に、ローマ占領下では私的な法にすぎない律法に従って殺せと言えば、私的制裁をすることになってローマの法に反します。その上、友なき人の友イエスのイメージが崩れるでしょう。学者、ファリサイ人たちは、何とかイエスを裁判に掛け、やっぱりこの人物は間違っていたんだと民衆に、そしてローマの権力者たちに思わせたかったのでしょう。彼らは確かに神の律法に忠実に生き抜こうとしていた人達です。律法による神への道を根底から揺るがすイエス、このイエスを抹殺することこそ神への忠実の道であると信じ切っていたのでしょう。彼らの宗教的熱心がイエスヘの憎しみと殺意を生んでいる。何ということでしょうか。この彼らの宗教的熱狂、憎悪と殺意に対していたのは、イエスの何だったのでしょうか。
イエスはこんな学者たちの企みを見抜いておられたのでしょう、彼らの意表を突かれるのです。黙ったまま身をかがめて何やら地面に書いておられる。なおしつこく問う者達に、彼はおもむろに顔を上げて言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げよ」と。一人投げると皆投げます。まず、誰が投げるか。「あなたたち、律法を盾にとってこの女を石打ちの刑にと言う。本当にあなたたちにそんな資格があるとでも思っているのか。この女の心の奥底の悲しみや、どんな境遇でどんな苦しみを負って生きているのかなど思っても見ず、その上、この女にかこつけて私を陥れようとは・・・」。 これは私の蛇足。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が先ず、この女に石を投げよ」。たったそれだけの言葉、それ以上何も言われません。あとは再び黙って地面に何か書いておられる。
イエスのこの一言は人々の虚を衝きました。ここで何が起こったのか。彼らの心の琴線に触れたのか、それとも怯んだのか。この群衆、一人去り、二人去り、多分最後まで残っていた学者、ファリサイ人も去るのです。この辺の簡潔な描写は見事と言うほかはありません。広場にはこの女とイエスだけが残りました。そしてイエスは言います。「女よ、あの人達は何処にいるのか。誰もあなたを罰しなかったのか」。「主よ、誰も」と彼女は答えます。「私もあなたを罰しない。さあ、お行き。今からは二度と罪を犯すなよ」。
この言葉に、私は言い様もなく感動するのです。イエスはこの女を無条件に一人の人間としてまるごと受け止め、受け容れたのです。学者、ファリサイ人の憎しみに向き合っていたのは、イエスのこの心、この愛だったのです。
ほんとうに自由なイエス。私も心解き放たれて、自由にイエスの言葉を受け止めたいと思います。この箇所、「私もあなたを罰しない(罪に定めない)。さあ、お行き」。そこでイエスの言葉は終わっていた、私はそんな気がするのです。「もう二度と罪を犯すなよ」は、何だかこの話の持つ物凄く凝縮された緊迫性、福音のことぱ(私は福音の言葉だと受け止めるのですが)としての緊迫性を、一つの戒め(道徳的教訓)の段階にまで緩めてしまうように、私には思えてくるのです。この話全体、今の聖書では括弧に入っています。後から入れられたという印です。この「二度と罪を犯すな」と言う戒めの言葉も前後関係に合わせて入れられたのでしょうか。
それはそれとして、もしこのまま読むとすれぱ、それは「罪を犯すな」ではなく、その語感からすれぱ、「もう二度と罪を犯すことはないんだよ」ということではないでしょうか。旧約聖書の言葉(ヘブライ語)の語感では、例えぱ十戒の第一、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」は、本来語形は未来形で、むしろ「私をおいてほかに神がいることはないだろう、そんなことはないのだ」と訳したほうが、はっきりその意味を表していると言っても良い。戒めというより恩恵のことば(福音)、また受け止める側から言えば信仰告自の言葉(「あなたのほか何者も神とすることは決してございません」)でしょう。恩恵の下でこそ「戒め」も強い禁止命令としての生きたことばとなるのです。イエスのこのことば(ヘプライ語と同系[北西セム語]のアラム語を話されたのでしょう)はまさにそうではないでしょうか。
この記事でのイエスとこの女性との出会い、簡潔な問答。それは、この女牲の生涯を変える決定的な一瞬だったのではないか。イエスの一言「わたしもあなたを罰しない。さあ、お行き」。女は心溢れて声もない、ただ大きく深く頷いて、心の一番深いところで「はい」と声にならない声で応えて、イエスのもとを去ったのでしょうか。この言葉にならない「はい」、これは信仰などという出来上がった言葉以前の、生(なま)の絶対信頼の心、原信仰とでも言うべきものだったような気がします。
あのマルコ5章に出てくる12年間病んでいてイエスの服に触れた女、あの時のイエスのことば「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。さあ、お行き」(5:34)。あの箇所の信仰という言葉も、こういった、むしろ信仰ならざるなまの信仰、イエスヘの絶対信頼の心とでもいうべきものでしょう。「あなたのその心があなたを救った」とでも言うべきでしょうか。
創世記12章以下のあのアブラハム、15章の、神がアブラムと契約を結ばれたところで、旧約聖書としても初めて言葉として「信ずる」という言葉が出てきます。(そこまでのアブラムの記事には一度も出てきません。彼は黙々と御声に従うのです)。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」「・・・そして彼はそれが自分にとって義しいことだ、と考えた」と訳すべきでしょうか(15:6)。大揺れに揺れながらもアブラハムは主のことぱに「はい」と応えて(黙々と、と言った方がよい?)従っていく、そんな中でやがてこの「はい」が熟していって、本当に信ずる、信仰という内容のこもった言葉、歩みになるのです。この「信ずる」はアーマンという言葉です。これは私たちキリスト者が今も使うアーメン(はい、本当にそうです)と、ヘブライ語の同じ語根の言葉です。この「はい」(アーメン)が熟し、深められ、実が付いていって、信ずる(アーマン)という内実を持った言葉がやがて成立するのです。今の私たちは、既にあるキリスト教信仰の中身と一生懸命取り組もうとしますが、実際には実感としてはなかなか分かりません。言葉そのものは、様々の経験が積み重なり、中身がこめられ、深められ、熟していって、一つのしっかりとした概念となるのです。ポイントは、単純なこの「はい」(アーメン)の方にあると思います。
この女性がその後どうしたか、私どもは知りません。しかし、一つ言えることがあるように私は思います。それは、イエスがこの「さあ、お行き」と言われたとき、彼女は深く頷いて去り、彼イエスは黙ってこの女性の罪を代わって負われたのだということです。そしてその分だけイエスは死に近付き、やがてエルサレムに入ってから十字架につけられたのです。
罪の値は死、イエスの十字架の死は御心に従っての人の罪を負っての死だったという。神の愛はそんな愛だったという。これが初代教会の信仰です。ひょっとしたらこの女も、いつの日か、イエスのすべてをそのまま分かって受け止める時が来たのではないか、イエスの復活を信ずる時が来たのではないか。そして人の重荷を一緒に負って生きる人間に変わっていったのではないか。そんなことも思うのです。「私も罰しない。さあ、お行き」。無言の頷きのうちにこの場を去った女。ここにイエスと彼女との出会いがありました。無言の「はい」を、人は様々の経験を経ながら持続と忍耐をもってどう育てるのでしょうか。
「出会いから何が始まるか」。この人こそという人、イエスとの出会いで何が起こるか。心が内に燃え、内なるみずみずしい感性が目覚めてくる。自分を発見し、再発見し、再創造する。他者を認め、他者に心から応ずることが始まる。神の声、真理の声の招き、呼び掛けに敏感に応答する(response)ことが始まるのです。人がまさに人間になるのです。
我らの主、イエス・キリストの父なる神よ、御名によって立てられたこの代々木上原教会で、友と共にこの礼拝のときを持つことが出来ましたことを心から感謝致します。この乱れに乱れた世で、はたしてキリストの福音にどれだけ意味があるのか。そんなあり様だからこそ、小なりと言えども、「はい」と応えた私どもにそれなりにお与え下さった役割を自覚して果たすことが出来ますように、お導きとお護りをお願い致します。九州にあってご奉仕下さっている村上先生をその場でお支え下さい。
何よりも世の、世界の苦しめる人々に私どもの目も心も向けることができますように。そのような人々のために主のご加護がありますように心からお願い申し上げます。
この祈りを御名によって御前にお捧げ致します。アーメン。