10月12日(火)の早朝、埼玉県の山奥で7人の若い男女が車の中で集団自殺をしているのが発見された。ほぼ同じ頃、横須賀でも二人が死んでいる。昨年ごろから話題になっていた「ネット心中」だが、これほどの人数が一度に死んだのは今回が初めてで、我々は衝撃を受けた。しかも、この中には若い母親もいて、「ごめんね」という遺書をわが子に残している。暗澹とした気持ちになる。
インターネットには「自殺志願者サイト」なるものがあり、希望の日時や場所、方法などを示して仲間を募っているという。こういう方法で、見ず知らずの男女が集まり、練炭の一酸化炭素を使って一緒に死ぬのは、今や流行になった観さえある。
よく、人は自殺を考えても最後の決断がなかなかできず、躊躇するものだと言われる。だから「ためらい傷」なども残る。集団自殺をする人たちにも恐怖や躊躇がないわけではないだろうが、いとも簡単に死に向かって突っ走っているように見えるのはどうしたわけか?
新潟青陵大学の碓井真史教授(社会心理学)は、「ネットは匿名性が高く、本音を出しやすいので、あっという間に共感し、同情しあってしまう。自殺の話題だけでつながっているので、だれもブレーキをかけず、むしろお互いに後戻りできない思いになってしまう」と説明する。この人たちは、大学受験の失敗や失恋、子育ての疲れなど、つらい経験を重ねて来て、「いっそのこと死んで楽になりたい」と思うようになったのだろう。だが、心の奥底には「生きたい」と願う気持ちも強くあるので、一人ではなかなか死ねない。同じように「死にたい」と思っている人々と交流することによって、初めて躊躇も克服され、自殺への意志は固まるらしい。
もしそうだとすれば、逆のことも起こり得る筈だ。14日の「朝日新聞」夕刊は、この碓井さんの試みを一面トップで伝えた。彼は「ネットで自殺したい気持ちを語ること自体は悪いことではない。本音を出し合い、自分が独りぼっちじゃないと気づかせることが大切だ」と考えて、1997年から「自殺予防サイト」を始めた。一日約3000件のアクセスがあり、13日(今度の事件の翌日)にはそれが1万件に跳ね上がったという。その中には、このサイトでのやり取りを通じて生きる意志を取り戻した人もいる。死ぬためではなく、生きるための交流がどうしても必要である。
その点で、今日の使徒パウロの言葉は示唆に富む。彼も「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていて欲しい。わたしたちは耐えられないほど圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」(8)と本音を洩らしている。この点では「自殺志願者サイト」にアクセスして来る若者たちとなんら変わらない。
ただ、パウロは自分の暗い心の中だけをいつまでも覗き込んではいなかった。彼は視線を転換する。こういう視線の転換が人間には必要なのである。碓井さんの「自殺予防サイト」の意図も、そこにあったのであろう。
ある友人のことを話したい。彼は、戦後20歳の頃、当時「不治の病」とされていた肺結核に冒され、「自分はもう死ぬしかない」という絶望的な気持ちを抱いて療養所で絶対安静の生活を送っていた。ところが、ある日病床から、「窓の外のアカシアの花の向こうに一つの光を見た」。不思議なことに、彼はその日から「何か大きな力に支えられている」という気持ちになり、「たとえ病気が治らず死んでもいいのだ。墓の向こうまで続いている希望がある。今はまだ小さいが、その光を見つめて歩いていけばいいのだ」と思うようになった。視線の転換である。
その後彼は健康を持ち直し、大学で教えて良い働きをし、74歳まで生きた。その彼が晩年、喘息の大発作を起こして生死の境をさまよったことがある。その時、もう一度光を見た。それは、ある写真家の作品であった。夕日が沈んだ後の水平線になお横に長くかすかに残光が漂っているところを美しく捉えた写真で、その脇にゼカリヤ書14章7節の言葉が書かれてあった。「夕べになっても光がある」! この言葉が彼を深く慰める。彼は書いている。「聖書には人間の弱さ醜さ悲しさが溢れています。そして、イエスはいつもその中にしかいらっしゃいません。『老いる』ということも、まことに容赦なくリアルで惨めなことです。だが、それを私たちは受け容れなければなりません。受け容れるだけでなく、そこには光があることを知らねばなりません」と。彼が若き日に見、そして年老いてから再び見たこの「光」とは、死への暗い思いを超えて輝く「いのちの光」に他ならない。パウロが「死者を復活させてくださる神」(9)と言うのは、そのことである。彼は、主イエスの復活を通して「いのちの光」を見たのだ。それゆえに彼は、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」(3)と書いたのである。
そのパウロが、今度は他の人々を慰める。死ぬための情報交換ではなく、生きるための力強く美しい交流が始まる。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(4)。さらに、「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります」(6)。このように、パウロとコリント教会の信徒たちの間には、苦しみと慰めを共有するという関係が成り立つ。「あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしている」(7)。
苦しみと慰めの共有! 我々の社会に必要なのはこのことであり、我々の教会に与えられている使命もまた、これではないか。