2004・10・10

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「最も重要な掟」

廣石 望

申命記 10,12-22マルコ福音書 12,28-34

旧約聖書の律法には、神がイスラエルの民に命じた掟が、全部でいくつ書いてあると思いますか。ユダヤ教の学者たちが数え上げました。全部で613あるそうです。そのうち248が「〜しなさい」という命令、365が「〜してはならない」という禁令です。たくさんありますね。

そこであるとき、律法の専門家がイエスに尋ねます、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。するとイエスは、こう答えます。「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」(マルコ12,29-30)。

この言葉は、じつは「シェマ―(聞け)」という名の有名なお祈りの出だしなのです(全体は申6,4-911,13-21民15,37-41の組み合わせ)。成人したユダヤ人男性が、毎日、朝と夕に唱えたそうです。ですから、「神を愛しなさい」という教えは、皆が知っていたものでした。

続いてイエスは言います、「第二の掟は、これである、『隣人を自分のように愛しなさい。』」(31節)――この言葉も旧約聖書からの引用です(レビ19,18)。こうしてイエスは、「神への愛」と「隣人への愛」という二つの愛の掟を、最も重要な掟としました。

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ところで私たちは、いくつ掟を持っているでしょうか。生きるため大切な「きまり」とは何でしょうか。よい人になるために、幸せな人生を送るために重要なことは何でしょうか。――「いい子にしなさい」「うそをついてはいけません」「お友だちには優しくしなさい」「人に好かれる人間になりなさい」「強くなりなさい」「しっかり勉強しなさい」「一番になりなさい」など、いろいろありますね。では、その中で、第一の掟と呼べるものがあるとすれば、それは何でしょうか。もしかすると、それは「もっと頑張りなさい」かも知れませんね。

どうして「もっと頑張る」ことが大切なのでしょうか。それは、今のままでは何かが足りないからです。もちろん学ぶべきことは、たくさんあります。手に入れたいものもたくさんあります。でも「もっと頑張る」ためには元気が要ります。それから、どうして、また何のために頑張るのかが分かっていないといけません。聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。

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私たちは、まだ手に入れていないものを頼りに生きることはできません。すでにもらっているものでなければ、私の支えにはなりません。先ほどお読みした申命記には、神は先ずイスラエルの民を愛した、と書いてあります。「見よ、天とその天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。」(申10,14-15

「神を愛しなさい」という掟の根拠は、神が世界とその中に生きている私たちを作って、これを愛したことにあります。すると「神を愛する」とは、神の愛を力いっぱい受け止めて、これに答えつつ生きることです。イエスは、病気の人や差別されている人たちのために一生懸命に働きました。この人たちが、「生まれてきて本当によかった、神さまありがとう」と心から思えるようになるためです。「神を愛する」とは、「神さまありがとう」と言えるようになることとつながっています。

W

もう一つ、「もっと頑張りなさい」と言われるとき、私たちはたいてい一人ぼっちで頑張らなければなりません。私は、自分のことで精一杯です。そんなとき、どうして「隣人を自分のように愛する」ことができるでしょうか。

ここでも、先ほどお読みした申命記にこうあります、「あなたたちの神、主は……孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」(申10,17-18

イスラエルの人たちは、むかしエジプトの国で奴隷として働かされていました。そして、苦しくて苦しくて、自分の力ではもうどうすることもできなくなったとき、神の助けを得て、何とかエジプトを逃げ出すことができたのです。だからこそ、「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」と、イエスも教えることができました。ですから「隣人を愛する」とは、「自分が心細かったときのことや、世の中で見捨てられている人たちのことを忘れて、自分ひとりだけ幸せになんか絶対にならないぞ」という気持ちのことだと思います。

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北海道の浦河というところに「べてるの家」という施設があります。そこでは、心の病に苦しむ人たちが、ソーシャルワーカーたちと一緒に作業所を経営しながら、共同生活をしています。べてるの家では、「頑張らない」ことが大切にされているそうです。それは、病気の人が、病気のままに互いを受け入れ合うためです。そこで暮らしている山本賀代さんという方が書いた、次のような詩がある本に引用されています(横川和夫『降りていく生き方――「べてるの家」が歩む、もうひとつの道』太郎次郎社、2003年、122-123頁)。


わたしの どこがいけないの
あのこの どこが変でしょう

目に見えるもの 少し違うかもしれない
聞こえてくること 少し違うときもある

だけど それだけで 見下さないで 見捨てないで

私だって笑ってる 私だって怒ってる
私たちも愛し合う 私たちも語り合える
痛みもある 喜びも 苦しみも あなたと同じに 感じているはず

人間なんだ あなたと同じ
人間なんだ 私もあなたも
人間なんだ 病気とかでも
人間なんだ あなたも私も

同じ権利を下さい 裁かれる権利もください
同じ力を下さい 同じ立場を下さい
人と人として


この詩は、「隣り人を愛する」ことの中味を、よく表現していると思います。隣人から愛されたことのある人は、やがて自分が神から愛されていることに気づくのだと思います。そして、そのことに気づいた人は、隣人を愛するのです。私たちも、そうありたいと思います。



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