テレビで、あるクレジット会社のコマーシャルが放映されています。お父さんが息子と渓流に魚釣りに行ったり、奥さんと子どもを連れて海外旅行に行ったりする場面が現われます。そして、どの品物を買うためにいくらお金を支払ったかを次々に数え上げた後で、こう言うのです、「お金で買えないものがある。買えるものは○○カードで」。私は笑っていいのか、泣いていいのか分かりません。まるで、「お金がないと、お金で買えない幸せも手に入りませんよ」と言われたようで、腹が立ちます。また、モノを買い与えてやる相手である子どもや妻は、所有によって達成される、〈夫/父親/男〉としての「私」のアイデンティティーの一部と見なされていて、何だか気分が滅入ります。何れにせよ、このコマーシャルは、「幸福の証明は所有にあり!」というメッセージを、私たちに送りつけていますね。そのことは、このコマーシャルに限りません。
しかし、このメッセージには、満たされた幸せな人生に対する憧れが透けて見えます。私たちは皆、それなりに幸せになりたいのです。そして、どうすれば満たされた生活を、偽りでない本物の人生を送ることができるかという問いは、多くの宗教が古くから問題にしてきました。
イエスの教えを聞いていた律法の専門家も、イエスに尋ねます、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)。律法の専門家の「永遠の命」への問いは、私たちにとっては真実な生への問い、私にとって本当の幸福とは何かという問いと同じです。
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イエスは、この問いに直接には答えません。むしろ「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(26節)と問いを返しています。律法の専門家は、専門家に相応しく、律法は神への愛と隣人への愛を教えている(27節)と言うことで、結局は、自分の質問に自分で答えます。この自答についてイエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(28節)とコメントしています。
このやりとりで、幾つか気になることがあります。第一に、この律法の専門家は、せっかくイエスに質問したのに、何ら新しい情報を得ることができませんでした。彼はイエスを「試そうとして」問うた(25節)とありますので、イエスは用心して、答えをはぐらかしたのかも知れません。それはともかく、「何をすれば私は幸せになれるでしょうか」という質問に、「そんなことは自分で分かっているでしょう。そのとおりにすればどうですか」と返答されたような、ちょっと意地悪な印象があります。先ほどのコマーシャルにつなげて言えば、「うちの会社でクレジットカードの契約をすればいいんですよ」というのと、少し似ているような気がしませんか。
第二に、〈神の掟がそう命じているのだから、そのようにせよ〉と言われても、とりわけ私たち現代人には、それは伝統的な権威に基づく、有無を言わせぬ強制的な命令のように聞こえて、かすかな違和感を覚えます。私たちは、他人から命じられることが大嫌いです。ましてや、私が誰を愛するかについて、とやかく言われる筋合いはない。その意味で、「どうすれば幸せになれるか」という問いに対する答えは、外側からの強制でなく、内面的な動機づけを伴うものでなければなりません。自分でも心から納得できるものでないといけないのです。このことは、「なぜ人を殺してはいけないか」と問われて、「それは神(/聖書)が命じているからだ」と答えるだけでは不十分であることに似ています。
そして第三に、何をすれば幸福になれるかという質問に、神や隣人を愛するようにと答えることは、ちぐはぐな印象があります。質問の方は、私が何かを〈手に入れる〉ことを目指しているのに、返答における「愛する」とは、基本的に〈与える〉ことを求めているからです。私は〈手に入れる〉ことを考えているのに、〈与えよ〉と言われたのでは、運動の方向が逆なのです。それとも真の人生は、それを手に入れようとする者にではなく、惜しみなく与える者にこそ与えられる、ということなのでしょうか。では、誰に与えればよいのでしょうか。
律法の専門家も、「わたしの隣人とは誰ですか」(29節)とイエスに再び問いかけます。イエスの方も、これまた、この問いに直接答えることをしないで、今度は、よきサマリア人の譬えを語ります。いま指摘したような問いをもって、二人の問答のなりゆきを見守りましょう。
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イエスの話しを聞いていたユダヤ人たちは、エルサレムからエリコに下る街道を旅する人を、自分と同じユダヤ人であると暗黙のうちに考えていただろうと思います。すると、追いはぎに襲われて半殺しにされたこの人を、祭司とレビ人が〈見て、見ぬふりをして〉通り過ぎたと聞かされたとき、聴衆は、今度こそ、この人を助けるヒーローが登場するに違いないと期待したことでしょう。そして、実際に期待通りの、いや期待を超える親切な振舞いをしたのが「サマリア人」であったと聞かされたとき、イエスの聴衆は、こぞってブーイングしたのではないでしょうか。サマリア教はユダヤ教と歴史的に姉妹関係にあり、民族的に両者は反目しあっていたのですから。このことを、サマリア人に助けられた旅人に視点を合わせていえば、〈気づいてみたら、最も助けてほしくない人に助けられてしまっていた〉ということです。ユダヤ人のコミュニティーは、聖職者と民からなる「イスラエル」という理解を持っていました。その神官階級に属する祭司とレビ人が傷ついた同胞を見捨て、イスラエルの民に属さないサマリア教徒が、この人を手厚く介護したというのですから、イエスの物語は「イスラエル」の自意識に揺さぶりをかけるものでもありました。
譬えを語り終わったイエスは、再び律法の専門家に問いを返します、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36節)。すると彼は、再び、そもそも自分が出した「わたしの隣人とは誰ですか」という質問に自分から答えるかたちで、「その人を助けた人です」(37節前半)と返答します。するとイエスは再び、「行って、あなたも同じようにしなさい」と命じます(37節後半)。
こうして、似たような問答の繰り返しが、二度行われたことになります。前半(25-28節)と後半(30-37節)が、同じ問答の構造を持っています。すなわち、まず律法の専門家がイエスに問い(25節「何をしたら永遠の命を・・・?」/29節「わたしの隣人とは誰ですか?」)、それにイエスが問い返し(26節「律法には何と書いてあるか?」/36節「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったか?」)、律法の専門家が自ら答えを与えると(27節「『神と隣人を愛しなさい』とあります」/37節「その人を助けた人です」)、最後にイエスは、そのとおりにせよと言います(28節「それを実行しなさい」/37節「行って、あなたも同じようにしなさい」)。
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先ほどの問いに戻りましょう。律法の専門家は、サマリア人の譬えを聞くことを通して、神への愛と隣人への愛という二つの戒めに関する知識を超えて、真の幸福を得るために何をすればよいかについて、何か新しい情報を手に入れることができたでしょうか。また彼は、文化的な権威としての神の掟という外面的な強制に代えて、内面的な自発性について何を得たことになるでしょうか。そして、何かを〈手に入れる〉という発想から、何かを〈与える〉という発想に転換するとき、幸福な人生への問いは、私たちにとって、どのような意味で新しい問いになるでしょうか。
まず非常にはっきりしていることは、イエスの譬えは、何かを〈手に入れる〉という自己中心的な発想では理解できないことです。傷ついた旅人は、自分からは何もできない状態にあり、気づいてみたら助けられていた、という話しなのですから。他方で、祭司とレビ人は旅人を「見て」も、向こう側を通り過ぎてゆきましたが、サマリア人は「見て、憐れに思い」ました。この「憐れに思った」という感情がすべてを変えたのです。ですからこの譬えは、開かれた目で世界を見ること、他者の必要に対して反応するだけの感受性を養うことを、私たちに教えていると言ってよいでしょう。〈手に入れる〉という発想から〈与える/愛する〉ことへの転換は、世界を見て感じることから始まります。
つぎに「憐れに思う」という感情は、それがまったく自発的なものである点で、権威や強迫観念による強制から最も遠い心のあり方の一つです。「憐れに思う」と訳されたギリシア語は、「腸(はらわた)」という単語から派生した動詞です。サマリア人はお腹で反応したのです。理性であれこれ考える以前に、身体で感じて動いた。もちろん私たちは、他者の視線や良心の呵責について知っています。しかしエルサレムからエリコに下る人気のない街道には、私の行動に釈明を求める人は誰もいません。そこは倫理や規範の無人地帯です。ですから、〈ばれたらどうしよう〉という心配は無用です。サマリア人の行動は、その意味で、純粋に自発的なものとして描かれています。
そして最後に、この譬えのどこが、「永遠の命」あるいは真の幸福への問いに対する新しい答えになっているのでしょうか。それはやはり、「わたしの隣人とは誰ですか」(29節)という律法の専門家の問いと、「誰が隣人となったか」(36節)というイエスの問い返しの間にある、あのギャップに関係していると思います。このギャップは、私が愛すべき対象をあらかじめ定義しようとする姿勢から、自由な出会いの中で私が誰かの隣人になってゆくことをよしとする姿勢への転換を示唆します。その際に、隣人への愛は、私が誰かに愛の行いを施して、それで終わりというものではありません。サマリア人は、宿屋の主人に援助を求めました。隣人を愛することは、私たちが生きている社会に支援を訴える働きかけを伴うものなのです。
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この点に関連して、一つのエピソードをご紹介します。紀元4世紀のローマ皇帝にユリアノスという人物がいます。既に公認されていたキリスト教に代えて、ギリシア古典文化の復興を目指したため、後に「背教者」とあだ名された人物です。彼は、キリスト教がこんなにも社会に広まってしまった最大の理由の一つを「他者に対する人間愛」に見ていました。キリスト教会は、古代末期のローマ社会の各地で、病院・救護所・養老院・孤児院などを兼ねた、つまり一種の総合福祉センターとしての機能を果たしていたのです。教会は、行き倒れや伝染病者、路上生活者、身寄りのない老人や子どもたちに、逃れ場所を無償で提供し、死者を丁重に弔ったのです。ユリアノスは、由緒正しいギリシア宗教の諸神殿が、この役割をキリスト教会以上にしっかり果たすよう指令を出し、かつ資金援助を行ないました。それなしに古典文化の復興はありえないと知っていたからです。もっとも、それは成功しなかったようです。
このことを私は、田川建三氏の最近の著書から学びました。その中で田川氏は、次のように述べておられます。「これは、たまたま困っている人を見て、クリスチャンが個人的な善意で助けてあげました、というような水準のことではない。……ここで言われているのは、いわば教会の組織、事業としてつくられ、しっかり運営されている場所、機能である。こういうものは、単にそれぞれの善意にまかせておいたのでは、できない。やはり、キリスト教会とはこういうことをする場所なのだ、という目的意識があって、積極的に取り組むのでないと、運営不可能である。……キリスト教会のあらゆる側面、個々の信者の生活のさまざまな局面において、それにつながる姿勢が通っていないと、こういうことはできない。ユリアノスはそれを知っていた」(田川建三『キリスト教思想への招待』勁草書房、2004年、127頁)。――もちろんこの発言は、信仰を個人の心の救済という問題に狭めて理解しがちな日本のキリスト教会のあり方に対する、やんわりとした、しかし手厳しい批判そして励ましでもあります。
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「お金で買えないものがある」――その通りです。古代のキリスト教徒たちが築き上げてきた〈人間の安全保障〉とも言うべき隣人愛のネットワークとその実践も、明らかに「お金で買えない」ものに含まれます。それは無償の支援でしたし、予算をつければ実行できるようなものでもありませんでした。そのようなかたちをとった隣人への愛を前にするとき、「お金がないと、お金で買えない幸せも手に入りませんよ」とか、「所有こそが幸せの証明です」といったメッセージは、何と恥知らずなことでしょう。自分の力で最低限の幸せを確保することすらできない人たちに出会うとき、その人々を「見て、憐れに思い」、自分たちの共同体全体の問題として彼らを支援すること――これが満たされた生への問いに対するキリスト教の一つの答えなのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」。