2004・9・5

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「神秘を告げる」

村上 伸

ヨブ記19,25−27コリント第一15, 50−58

 私は、今年に入ってから4回、葬儀の司式をした。城崎照彦さん(2月7日)、堀江久さん(3月22日)、原村静子さん(6月18日)、そして鈴木栄さん(8月15日)である。その度に、「死」について改めて厳粛に考えさせられた。この後、11月14日には「召天会員記念礼拝」が予定されている。そこで、この期間は「生と死について」を総合テーマに説教したいと考えている。

 エリザベート・キュブラー・ロスという精神科医(スイス生まれの女性、アメリカで活躍)が、多くの臨死患者、とくに子供たちの最期を看取った経験をもとに『死ぬ瞬間』(On Death and Dying,1969年)という本を書いた。読まれた方もあるだろう。

 それによると、死が避けられないということが分かったその時から実際に死ぬまでの精神状態には五つの段階があるという。第1は「否認」である。ほとんどの患者はその事実を認めたがらず、「まさか!」と言って否定する。第2段階は「怒り」で、「なぜ、今、この私が死ななければならないのか」という怒りを周囲にぶつける。第3が「取り引き」の段階だ。「もう一度だけ桜が見たい」とか、「今生の思い出にもう一度ピアノが弾きたい」というような期限つきの約束を医師や運命、あるいは神と取り交わして、死を少しでも先へ延ばそうと取り引きする。それも所詮無駄だと分かった時に、第4段階として「抑鬱」が現れる。これは説明するまでもないであろう。その程度や期間は人によっていろいろだが、大抵の人はこうした諸段階を通って「受容」という第5の段階に達する。最後には、自分が死ぬという事実を平静に受け入れるのである。日本風に言えば「静かな諦め」ということになろうか。

 このキュブラー・ロスの分析は30年以上も前のもので、しかも主としてアメリカ人を対照とした研究に基づいている。だから、現代の日本人にそのまま当てはめることは難しいかもしれない。個人差もある。しかし、アルフォンス・デーケンさん(上智大学)は、「否認」・「怒り」・「取り引き」・「抑鬱」といった各段階を通って「受容」に達するというパターンは、基本的にはどんな人の場合も共通している、と言う。

 ただ、デーケンさんはこれに第6の段階「期待と希望」を付け加えた。これは、長年カトリック司祭としてドイツやアメリカの病院で死に行く人々を看取った経験に培われた彼の確信である。かつて聴いた講演の中で、彼はこう述べた。「死後の永遠の生命を信じる人は、受容の段階にとどまらず、永遠の未来を積極的に待ち望んで、希望に満ちた明るい態度をとることが多いのです。とりわけ愛する人との再会への期待は大きいようです。私は癌で苦しむ子供たちが、天国でお母さんとまた会うことを素直に信じながら息を引き取るのをずいぶん見てきました」

 この言葉は、旧讃美歌489番を思い起こさせる。「親はわが子に、友は友に/ 妹背あい会う 父のみもと/ 雲はあとなく 霧は消えはて/ 同じみすがた ともに写さん/ やがて会いなん 愛でにしものと やがて会いなん」。

 正直に言えば、私は若い頃、教会のお葬式でこうした歌が歌われるのを聞く度に、こんなことは死別の辛さ・悲しさを和らげるために考え出された「お伽話」のようなものではないかと心のどこかで感じていた。だが、その後、両親や兄姉、何人もの親しい友人や尊敬する恩師と死に別れるという経験を重ねる中で、私もまたごく自然に「愛する人々とまた会える」と信じるようになった。そのことによって悲しみは癒される。そして、先に天に召された懐かしい人たちと対話をする。もちろん、細かいことまでは分からない。こうしたことについて、「まるで見てきたように」あれこれ語ることは人間にはできない。ただ、「神は知り給う」と信じるのだ。パウロが「わたしはあなたがたに神秘を告げます」(51)と言ったのも、そういう意味ではないか。

 ヘンデルのオラトリオ『救世主』第3部では、この聖句を男声(バス)が朗々と朗誦する。"Behold, I tell you a mystery." 続いて、「ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(52)と歌う。トランペットが喨々と鳴り渡る。

 パウロが続けて述べているように、我々人間は、他のすべての被造物と同じように「朽ちるべきもの」であり、「死ぬべきもの」である。有限のものであり、そのままでは決して神にまみえることはできず、「神の国を受け継ぐことはできない」(50)。この世においては、我々の命は「死に飲み込まれた」ような形でしか存在しない。

 先週、ロシアで2機の飛行機の同時爆破テロが起こり、その直後にモスクワ市内でも爆弾テロがあり、続いて北オセチア共和国ベスランの学校では、1000人もの子供たちや親たちが人質に取られた。チェチェン独立運動をロシア政府が仮借ない仕方で弾圧したことへの反発と言われる。治安部隊が突入して200人以上の死者が出るという悲惨な結末を迎えた。我々はこのニュースに言葉を失った。パレスチナやイラクでも同じだ。テロは拡散し、報復の空爆が続く。この世界では、死が勝ち誇っている。

 だが、このような悲惨にも、神は必ず終わりを与え給う。やがて来たるべき終末の時には、「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです」(52)。そして、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着ることになります」(53)。それは、「死が勝利にのみ込まれる」(54)ということに他ならない。これが「神秘」なのである。このことが信じられるなら、我々は死を迎える時でさえ、「期待と希望」を持ってそれを受け入れることができる。そして、それは生の形をも「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励む」(58)という、確かなものとするのである。



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