2004・8・22

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「思い悩むな」

廣石 望

イザヤ書 35,1-10ルカ福音書12,22-34

I

イエスはこの箇所で、弟子たちに向かって、三つのことをしてはいけないと言い、それに代えて三つのことを行なうよう勧めています。その第一は、衣食住のことで「思い悩むな」(2229節)、むしろ「(カラスや野原の花のことを)考えてみよ」(2427節)というものです。第二のペアは、「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない」(29節)、むしろ「ただ、神の国を求めなさい」(31節)というもの。その際、新共同訳の「考えてはならない」は意訳で、原語では「求めてはならない」とあります。つまり飲食を求めるな、「神の国」だけを追求しなさいという対比があります。そして第三のペアは、「恐れるな」(31節)、むしろ「(自分の持ち物を)売り払って施せ・・・」(33節)です。こうして「〜するな、むしろ〜しなさい」という言い方が、都合3回繰り返されていると見ることができると思います。

先ず、してはいけないと言われる三つの行為について、次に、するようにと命じられている三つの行為について考察し、最後に、全体を通して考えてみたいと思います。

U

「思い悩む」とは、〈将来のことをクヨクヨと心配する〉ことと並んで、〈努力する/手筈を整える〉ことも意味します。つまり、じっと座っていようと、せかせか動きまわっていようと、何れにせよ「思い悩む」とは、自分の命と身体の維持および安全を、自力で確保・保障しようとする態度のことです。イエスは、これを避けるよう弟子たちに勧めます。

実際、私たちの行動は、非常にしばしば自己保存と自己拡大を目指しています。どうすれば現在の水準をなんとか維持できるか、あるいは少しでもグレードアップできるかという問題は、年金で生活する者から企業のトップに至るまで、多くの人々にとって中心的な関心事です。個人や家庭にあっても、競争社会に生きる私たちにとって、進学・就職・昇進・結婚・子育て・財産運用など、あらゆることにおいて「常に上を目指す」という思考スタイルはとても親しいものです。イエスから見れば、私たちの生活は「思い悩み」で溢れかえっていることでしょうね。

〈何を食べるか、何を飲むかを追求するな〉(29節参照)という勧めも、基本的に同じことを意味していると思います。いまの日本は空前のグルメ・ブームです。まるで「美味しいものを食べなくちゃ生きてる意味がない」と言わんばかりに、雑誌やテレビが大々的に「食べ物」「飲み物」についてとりあげています。他方で、ダイエットもまた大きな市場を形成しています。こちらはこちらで、「贅肉をゆるさない自己管理能力こそ賞賛に値する」とでも言わんばかりの宣伝ぶりですね。

三番目の禁令は「恐れるな」(31節)です。私たちは、衣食住に始まるさまざまな「思い悩み」や欲求だけからではなく、しばしば「恐れ」や不安から行動します。30年ほど前にオイル・ショックと呼ばれる社会現象が起こりました。中東からの原油供給が滞りそうだというので、多くの人々がスーパーマーケットに殺到して、洗剤やトイレットペーパーを大量に買い漁りました。つい最近も、米英軍によるイラク攻撃開始に先立って、開戦を主張する人々は、「イラクは大量破壊兵器をすぐにも使うかも知れない」という虚偽の報道によって、人々の恐怖心を掻き立てました。そのとき私たちは、「もし本当にそうならば恐ろしい」と感じたのではないでしょうか。

日本政府が、米英軍によるイラク攻撃を直ちに支持した一つの理由として、核開発をちらつかせる北朝鮮の脅威を、米国の軍事力をバックに跳ね返さなければならいから、という理解があります。「脅威」の実態がどのようなものなのか、そして米軍が本当にミサイル攻撃から日本国民を守ることができるかどうかは、ここでは問わないでおきましょう。何れにせよ、人々に恐怖感を抱かせることは、世論を操作する上で非常に有効な手段であることが分かります。相手のことをよく知らないのに軽蔑したり嫌ったりすることも「恐れ」の典型的な表われの一つです。こうして「恐れ」は、自己保存と自己拡大を目指す「思い悩み」と深く関係していることが分かります。

先日、マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』という映画を観ました。1999年4月、米国コロラド州にあるコロンバイン高校で起こった、生徒による銃乱射事件をめぐるドキュメンタリーです。どうして、米国と同様に多民族社会であったり銃社会であったり、あるいは失業率はもっと高い国々も存在するのに、なぜ米国では銃による死傷者が桁違いに多いのか、という重い問題をとりあげた作品です。映画の中では、殺人犯の少年たちが心酔していたという理由で、バッシングの標的にされたパンク・ロックの歌手が、インタヴューに答えて、次のように極めて冷静な見解を述べていました。

「恐ろしいニュースを流したかと思うと、次の瞬間にはコマーシャルが流れ、消費を呼びかける。メディアは恐怖と消費との一大キャンペーンを作り上げている。消費へと向かわせるために、人々に恐怖を与える。その恐怖心が人を銃に向かわせる」。

何と鋭い観察でしょう。「思い悩み」と「恐れ」は、消費への欲望と並んで、社会の中で不信感と敵意が育つための苗床でもあるわけです。

V

続いて、三つの肯定的な命令について見てみましょう。

先ずイエスは、「思い悩む」ことに代えて、カラスや野原の花のことを「考えてみよ」(24.27節)と言います。「考えてみよ」と訳された単語には、〈熟慮をもってしっかり観察する〉というニュアンスがあります。殻に閉じこもって自分のことだけに関心を集中させるのを止めて、外の世界に向けて心を開きなさい、という意味です。

次に「飲み食い」ではなく「神の国」を求めるよう、イエスは勧めます(31節)。もっとも「神の国を求める」ことが何を意味するのかについて、詳しい説明はありません。

最後に、「恐れないで、むしろ施しなさい」とイエスは言います(32-33節)。「施しなさい」とは、助けを必要としている人々のために具体的な行動を起こしなさい、という意味に一般化して理解できると思います。

一方では「カラス」「野原の花」をよく理解すること、他方では「助けを求める人々の声に耳を傾けて、行動につなげること」――これら二つのことが、「神の国を求める」ことに深く結びついているに違いありません。この予想をもって、もう一度全体を読み直してみましょう。

W

「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣類よりも大切だ」(22-23節)。――イエスは、〈食べ物や衣類など一切不要である〉とは主張しません。食べ物が「命」のためにあり、衣類が「体」のために必要であることは認められています(30節後半「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である」)。

「何を食べようか」「何を着ようか」と思い悩んではならない理由は何でしょうか? それは、こうした思い悩みによって、「命」と「体」が、つまり一人ひとりの人間存在が、食物と衣類に対して持っているプラスアルファーが破壊されるからです。

では、そのプラスアルファーは、どこにあるのでしょう? 「カラス」と「野原の花」をよく見れば、そのことは分かるはずだとイエスは言います。すなわちカラスと花は、自らは労働しないにもかかわらず、神が彼らに食物を与えて「養い」、衣類を与えて「装う」。だから、より優れた存在である人間は、自分の寿命を延ばすこともできないままに、神による養いと装いに安心して身を委ねてよいのだ、というわけです。

こうした論理の展開の全体を支えているのは、一つには、〈神が世界をそこで生命が育まれるために造った〉という創造信仰です。強調点は、いのちを支えるのは神だという点にあります。したがって鳥たちと草花は、〈無為徒食〉――働かないでタダ飯を食らうこと――のシンボルというよりも、むしろ神の創造世界の仕組みとその美しさを証言する存在です。

もう一つ重要なのは、人間の命を自然界の生命との連続性において捉える視点です。さきほど朗読したイザヤ書35章にも、自然が人間と一緒になって神を讃えると言われています。もちろん自然界には〈喰うか・喰われるか〉という過酷な生存競争もあり、旱魃や飢饉に際して最初に犠牲になるのは動物たちでしょう。それでもイエスは、二羽で1アサリオン(1デナリオンの1/18)という非常な安価で売られている雀ですら、「そのうちの一羽すらも、あなたの父なしに地上に落ちることはない」と言います(マタイ10,28ルカ12,6)。

ここから見るとき、「思い悩む」とは、〈人間に対する神の仕事を、人が自力でやってしまおう〉とする試み、〈与えられて生きる他ない命や身体を自由に操作したい〉という欲望です。私たちの命や身体が食物や衣類に対してもつプラスアルファーは、すなわち私たちの個人としての尊厳は、私たちの存在の根拠そのものが、自らの力で生み出したものでなく、むしろ根源的な仕方で「与えらたもの」であることに存するのです。つまり私の尊厳は、私が自分の存在を自分自身に負っていないことにあります。不思議な思想ですね。

「思い悩む」とは、すべてを自力で生産しようと欲することで、この「与えられたもの」という位相を帳消しにする動きに他なりません。実際、人間の生存は、生産不可能な天然資源に――大気や土壌や水を含む地球環境、地球上に生存する種の多様性、そしてとりわけ植物と動物を含む食糧資源に――根源的に依拠しています。加速度的に進行する環境破壊と世界飢餓の悪循環は、富める国の人々が自らの生存を自己目的化し、そのために「与えられたもの」を完全に道具化してきたことの結果であるかも知れません。

V

最後に、「施し」について申し上げます。33-34節は、聖書学的には「編集句」と見なしてよいと思います。つまりルカ福音書の著者が、元来はこの位置になかった言葉を、編集作業を通して、先行するイエスの言葉につなげたのです。

「カラスや野原の花を見よ」という言葉を伝承したのは、生前のイエスと同様に、故郷と家族と財産を棄て、乞食坊主のようになって、行く先々で出会う人々の善意だけを頼りに「神の国」のメッセージを告げて回った人たち、現代の新約学で〈放浪する霊能者〉と呼ばれる人たちであったと思われます。他方で、33節以下の「自分の持ち物を売り払って施しなさい」「財布を作りなさい」「天に富を積みなさい」という勧めにおいては、財産を所有しつつ定住するという生活様式が前提されています。

このようなバックグラウンドとしての生活形態の異なる二つの言葉を組み合わせることで、一つの大きな効果が生まれます。すなわち、アウトサイダーが社会の中心的な価値観をシンボリカルに代表するこことが可能となったのです。

国連に世界食糧計画(WFP)という部局があります。その日本語ホームページによると、「今日世界には、すべての人々が健康で生産的な生活を送るために必要な栄養分を摂取するのに十分な食糧がある」そうです。にもかかわらず、1日に8億以上の人々が、毎日を空腹のまま終える生活を余儀なくされているそうです。また、人災や自然災害の被害者およそ5,000万人が、深刻な飢餓の脅威にさらされており、毎日1万1,000人の子どもたちが、主として栄養失調が原因で亡くなっているそうです(FAQのページを参照)。

この惨たらしい現実を前にするとき、「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(34節)というイエスの言葉は、私たちに対する重い告発として受け止めるほかありません。

私たちの真の「富」はどこにあるのでしょう? 私たちの真の「宝」とは何でしょうか。それは何らかの意味で「神の国」と関係していると思います。そして「神の国」とは、カラスや野原の草花のように、無価値なものとして棄てられて行く〈小さな命〉の中にこそ現れる、とイエスは言いました。十字架上に棄てられたイエスその人が、そのような小さな命の代表です。

私たちの心が、真の「富」であるイエスのもとに、人となった「神の国」であるイエス・キリストのもとにあるとき、そのときにこそ私たちは、思い悩みから解放されて、与え手としての神に信頼するようになる。恐れと敵意から解放されて、勇気と愛をもって、いのちを分かち合うようになる。そのときこそ、小さな群れである私たちに「神の国」が与えられるのです。この約束を信じましょう。



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