今日は「敗戦記念日」だ。59年前のこの日のことを、最近よく思い起こす。
私は当時、八王子にあった陸軍幼年学校の生徒だったが、学校は既に8月1日深夜の空襲で消失し、生徒たちは焼け残った物置などで雨露を凌いでいた。15日になって、「正午に玉音放送があるから校庭に集まれ」と命じられた。炎天下、直立不動の姿勢でラジオ放送に耳を傾けたが、雑音がひどくて中々聞き取れない。時々「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」とか、「万世のために太平を開かんと欲す」といった言葉、不思議な抑揚のある天皇の声が聞こえてきた。要するに内容がよく掴めなかったから、その受け取り方もさまざまだった。「日本は負けたんだ」と言う者がおり、「いや、もっと頑張って戦い抜けと言われたんだ」と言う者がいた。私はといえば、猛暑のためにほとんど卒倒しそうになっており、「早く日陰で腰を下ろしたい」と思っていた。
その後、敗戦の事実が明らかになったが、15歳の軍国少年にとっては、この事実を受け入れることは容易ではなかった。ただ、その日を境に教師たちの混乱と退廃が目につくようになり、私の中では何かが壊れ始めた。結局、学校は解散になり、生徒は「家に帰れ」と言われて放り出されたのである。私は文字通り途方に暮れた。
当時、私の家族は満州にいたから、「家に帰る」ことは不可能だった。津軽の母の実家に行こうと思って、同じ方向に向かう友達と二人で上野駅に行ってみると、その日解散になった陸海軍の何万という復員兵士たちが駅の内外を埋め尽くしていた。順番を待って丸一日外にいる内に雨が降り出して、全身濡れ鼠になった。それでも、翌日の昼ごろには漸くプラットホームの最前列に出た。そこへ列車が入ってきた。
それからの私にははっきりした記憶がない。気がつくと私は車内におり、しかも山と積まれた荷物の上にちょこんと座っていた。天井が手の届く近さにあり、遥か下のほうに窓が見え、そこから、列車とホームの間に挟まれてもがいている友達の姿が見えた。「下ろしてくれ」と叫ぶ私にありとあらゆる罵声が浴びせられ、窓から外へ蹴り出された。ようやく友達を助け起こしたとき、私は情けなくて泣けてきた。これが、自分が今まで誇りとしてきた「皇軍」(天皇の軍隊)の実態なのだ、と思い知らされたからである。二人で支え合って、やっとの思いで八王子の学校の焼け跡に帰り、物置に潜り込んだ。今までの「信念」はもう跡形もなく、今まで美しいと信じていたものは、もはや美しくはなかった。一体、これからどう生きて行けばいいのか? 私にはまるで分からなかった。あの日起こったことは、そういう「心の拠り所の崩壊」だった。
人は生きていく途中で、時にこうした挫折を経験する。『哀歌』の作者が、「主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った」(3,1)と言うのも、単に「生活苦」や「病苦」のことではなく、心の拠り所が崩れた苦しみを意味していたのではないか。
使徒パウロはかつて、ファリサイ派のエリートとして「キリスト教徒は迫害せねばならぬ」という固い信念を持って生きていた。ところがある日、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」(使徒言行録9,1)ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(9,4)というイエスの声が聞こえた。彼は地に倒れ、目が見えなくなり、三日間は物も食べられなかった。それまでの信念が根本的に問われ、揺さぶられたからである。
しかし、これは決して悲劇的な挫折ではない。より高い段階に新たに達するためには、古いものは否定されねばならない。ヘーゲルはこれを「弁証法的な発展」と名づけたが、歴史はそのような過程をたどって進むのである。『哀歌』の作者は、「主の怒りの杖に打たれて」苦しむという経験を経て、初めて「主の憐れみは決して尽きない」(3,22)という信仰に目覚め、さらに、「朝ごとに新たに」(23)生き始めた。パウロも、それまでの生き方を根本から揺さぶられて地べたに倒れ、そこから立ち直って新しく福音の伝道者として生き始めたのである。
敗戦時の私の体験は、むろん小さなことに過ぎなかったが、古いものが否定されることによって新しい生が始まる、という人生の真実を示してくれたように思うし、世間が重きを置いている「価値」についても、考え直すきっかけを与えてくれた。この世の価値は逆転する、ということである。
今日のテキストは、「幸い」という価値が「不幸」に逆転することを告げている。主イエスは「貧しい人々・・今飢えている人々・・今泣いている人々・・人々に憎まれ・・追い出され、ののしられ、汚名を着せられる人々は幸いである」(20b−23)と言い、逆に「富んでいるあなたがたは不幸である」(24)、「今満腹している人々・・今笑っている人々・・すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」(25-26)と、『山上の説教』にはない言い方を付け加えて、逆転の内容をより際立たせた。
むろん、何でもかんでも逆転さえすればいい、というのではない。神の御心に反して高ぶり、そのことによって富み、満腹し、満足の笑いを見せている人々の「幸せ」は必ず覆る、というのである。逆に、神の意志に従って生きようとしたために、今は貧しく、飢え、泣き、世間から憎まれ、追放され、ののしられ、汚名を着せられている人々の「不幸」は、神によって必ず「幸い」に変えられる!
『マリアの賛歌』にも、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1,51−53)とあるではないか。
敗戦によって、私はこのような認識にも導かれたのであった。