2004・7・11

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「偽りを捨てて」

村上 伸

申命記 24,17-2エフェソの信徒への手紙17−32

今日の箇所の初めに、パウロは「異邦人と同じように歩んではなりません」(17)と強く勧めている。「異邦人」とはキリスト教徒でない人々のことだが、パウロは、この人たちが「愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」(17−19)と、いささかひどい言い方で批判しているように見える。

しかし、パウロはここで単に異邦人の悪口を言っているのでも、「クリスチャン以外は皆ロクでなしだ」とケナしているのでもない。そうではなく、真にキリストに従わない人、互いに愛し合うことこそが神の意志であることを知らない人は、たとえクリスチャンであっても、実は愚かであり、頑固であり、無感覚で放縦である、と言いたいのだ。パウロは、「以前は遠く離れていた」異邦人も「キリスト・イエスにおいて近い者になる」(2,13)と信じていたから、名目上「クリスチャンであるかないか」は問題ではない。問題は、「本当にキリストを知る」ということなのだ。だから、彼はいい加減なクリスチャンをたしなめて、「あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」(20-21)と言ったのである。このように「キリストを学ぶ者たち」、すなわち「互いに愛し合うことこそが神の意志であることを知らされた者たち」の交わりが教会なのである。

パウロは、「偽りを捨てて、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」(25)と勧め、そのことを26節以下で詳しく展開しているが、これはクリスチャン同士の「個人倫理」というよりは、教会の在り方についての具体的な指示と取るべきであろう。先週も述べたように、教会の「頭」はキリストであり、教会はキリストの「体」である。人間の体があらゆる動作や活動を脳の指令によって行うように、教会はただ「頭」であるキリストの意志に従って生き、その「体」としてすべての活動を行うべきである。26節以下の言葉も、一見、「個人的な徳目」の羅列のように見えるが、「頭」であるキリストの意志に従うことに関して偽りがあってはならない、という意味ではないだろうか。我々の教会も、この点で偽りがないように心から願っている。

しかし、これは口で言うほど簡単ではない。世界の教会の歴史を振り返って見れば、これは明らかである。第4世紀以降、ヨーロッパの教会はローマ教皇をトップに戴く立派な「制度」(教職階層制=ヒエラルキー)を確立し、美しい「ミサ典礼」を完成させるとともに深遠な「神学」や完璧な「教会法」を発展させ、壮麗な「大聖堂」を各地に建て、音楽や美術などの面でも見事な「キリスト教文化」の花を咲かせた。これが本来イエス・キリストへの信仰から生まれたことに、疑いの余地はない。

だが、この一見「キリスト教的な」社会、それを治める皇帝や聖職者たち、またこの社会を構成する「クリスチャン」は、しばしば主イエスご自身の意志とはかけ離れた方向に向かって突っ走った。例えば、ユダヤ人に対する差別や「大量殺戮」(ポグロム)、イスラームに対する偏見と敵意から発動された「十字軍」、おぞましい「魔女狩り」や「異端審問」、プロテスタントとカトリックの間でなされた数度の「宗教戦争」、植民地主義の手先となった「海外宣教」、そして遂には「キリスト教国」同士による、前例のない「世界大戦」!これらは断じて「キリストの意志」ではなかった。

主イエスは一度だってそんなことを望みもしなかったし、教えもしなかった。彼が教えたのはただ、全人類に対する神の愛であり、「互いに愛し合いなさい」という戒めであった。こうして主イエスは「十字架によって敵意を滅ぼし」(2,16)「わたしたちの平和」(2,14)となったのである。愛と平和。これこそが、教会の「頭」であるキリストの意志である。

歴史は、いわゆる「キリスト教的ヨーロッパ」の教会が、このキリストの意志に対して真に忠実ではなかったことを我々に教えている。こういうことは、現代にもある。だから、ただ「キリストの意志」に従って歩みたいと願っている我々の教会も、そうならないように細心の注意を払わなければならない。

教会は天にいるキリストから命を受けているが、同時に、地上に存在する「体」でもある。この二重性に問題の難しさがある。教会に属する我々は、信仰に関してはキリストに従うが、地上の事柄に関してはこの世の法律に従わねばならない。「憲法」を尊重して民主主義を擁護し、法律の定める所に従って選挙権を行使し(今日は参議院選挙の当日である!)、税金や年金も支払う。主イエスも、「皇帝のものは皇帝に返せ」(マタイ22,21) と言われた。

だが、教会が「キリストの」体である限り、社会の動きにただ流されるようであってはならない。主イエスが心から望まれた愛と平和に反し、戦争につながるような動きが出てきた場合、それを黙って見過ごすことは、「愚かな考えに従って歩む」(17)ことであり、「知性が暗くなる」ことであり、「神の命から遠く離れる」(18)ことである。そして、戦争ともなれば、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど・・・一切の悪意」(31)が噴き出す。それは、「神の聖霊を悲しませる」(30)であろう。

それ故、我々の教会はいつもキリストについて聞き、キリストに結ばれ、その内にある「愛」と「平和」の真理をそのままに学び、それに固着しなければならない。それが「偽りを捨てて・・・真実を語る」(25)ことなのではないか。



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