2004・6・13

「火を投じるイエス」

廣石 望

ルカ福音書12,49−53

キリスト教は平和を求める宗教です。もっとも聖書の伝統では、平和は人間を通して実現するものではあっても、究極的には神が作り出すものです。そのような平和は、たんに戦争がない状態を意味するだけではありません。自然災害や病気をまぬかれていること、気候が安定して食べるものが十分にあること、子供がたくさん生まれて年配の人たちが健康で長生きすること、将来に不安がなく、社会に差別や抑圧がないこと、国の政治が安定していること、外国から圧力を加えられないこと、さらには野生動物と人間が共存してゆけることまで含まれます。その意味で神の平和は、被造物すべてを含む包括的な平和です。

ですからキリスト教は、かつてのユダヤ教徒とかつての異教徒たちが共に生活してゆくことができるという意味では、「宗教」を超えた共存関係も、神がキリストを通して作り出した「平和」の中に含めています。「実に、キリストは私たちの平和であります」(エフェ2,14)

しかし、先ほど読んだ箇所でイエスは、「私は地上に平和でなく、分裂をもたらすために来た」と言います(49節)。さらには「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」とも(51節)。キリスト教が平和を重んじるのは、イエスを誤解した結果なのでしょうか。いいえ、私たちは、イエスが暴力を否定したこと、そして「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5,9)と言ったことを知っています。

さきほど子どもたちへのメッセージで、教会学校の教師である土田潤子さんが、「イエス」を意味する手話が、両の手のひらの傷を指差す動作であることを教えてくださいましたね。イエスは、暴力をわが身に引き受けることによって、暴力と報復の悪循環を断ち切り、平和を実現しようとしたのです。

では、「キリストは私たちの平和である」という私たちの告白と、「私は平和でなく、火と分裂をもたらすために来た」というイエスの言葉は、どのような関係にあるのでしょうか。イエスが本当に望んでいたことは何だったのでしょうか。私たちは、そこから何を学ぶことができるでしょうか。

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49節でイエスは、彼の宣教の目的について、また願いについて述べています。彼の宣教の目的は「地上に火を投じること」であり、彼の願いは「その火が既に燃えていること」でした。もっとも「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」という発言からは、実際には、〈その火はまだ(十分には)燃え上がっていない〉という意味合いがうかがわれます。

「火」とは、何よりもまず、神の怒りの審判における〈滅び〉を示唆するイメージ言語です。イエスはこのイメージを、とりわけ彼の師である洗礼者ヨハネから受け継いだのでしょう。ヨハネは、こう言っていました、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3,9)。さらに「私の後に来る者」について、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(ルカ3,16-17)、と。イエスの使命は、地上に「神の裁き」を導き入れることにありました。

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実際、この世界には、神の平和を破壊するものに溢れています。私たちの欲望と攻撃衝動は、とめどなく拡大してゆくようです。先日、小学校6年生の女の子が、学校で同級生の友人をカッターナイフで切り殺した、という恐ろしいニュースが飛び込んできました。母親が自分の子どもを殺してしまうという事件も続いています。そしてイラクやアフガニスタン、そしてイスラエルでは、占領軍とそれに反対する人々の争いのために、そうした駆け引きとは何の関係のない人々が、一生にひとつしかない命を奪われ続けています。戦場ジャーナリストの橋田信介さんは、戦闘に巻き込まれて傷ついたイラク人少年を、治療のため日本に連れ帰ろうとして現地に渡り、若い甥のジャーナリストとともに銃撃を受けて亡くなりました。私たちの世界には悪が存在します。他に何と言ってよいでしょうか。

この世界をよいものとして作り、その中で命が大切に育まれることを望まれる神は、こんな私たちの世界をそのままにしておかれるでしょうか。私たちの世界が今すぐに裁かれ、その悪い部分が「火」によって滅ぼされてしまうなら、「その火が既に燃えていたら」どんなにかよかったことでしょう。

これほどの悪は、いったいどこから出てくるのでしょう。イエスは、「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである」(マコ7,20-21)と言います。ならば、神から裁かれるべきであるのは、私たち一人ひとりです。「私が来たのは、地上に火を投じるためである」とは、人間が生み出す悪に対する、イエスの憤りと嘆きの言葉であると思います。私たちは自分の胸に手を当てて、イエスの悲嘆と憤怒を幾ばくなりとも感じとろうとしてみるべきです。

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続いてイエスは、「しかし、私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう」(50節)と言います。「洗礼」とは元来〈水に浸すこと〉を意味します。おそらく〈大きな流れに飲み込まれて、溺れ死ぬこと〉を指すでしょう。それが大きな試練を意味するものであることは、「それが終わるまで、私はどんなに苦しむだろう」という発言からも分かります。

すると、この言葉を、さきほどの「火」についての言葉と合わせて読むとき、「地上に火を投じる」というイエスの使命は、イエス自身を飲み込むであろう苦難と裏表一体の関係にあることが分かります。彼は、自分ひとり安全なところに身を引いておいて、「火を投じる」ためのスイッチを押すことができるとは考えませんでした。神の平和に敵対する人間の欲望や憎しみに対して「火」を投じようとする者が、安全でいられるはずはないのです。イエスが活動を始めたガリラヤでは、ヘロデ・アンティパスが事実上「王」として統治していました。その領地の内部で、「神の(王)国は近づいた」(マルコ1,15)と宣言する者は、おのずと非業の死を覚悟せざるをえなかったと思われます。

さらに「火を投じる」ことと「神の国」との関係について、古代の教会教父たちによって、次のようなイエスの言葉が伝えられています。

「私のそばにいる者は火のそばにいる。私から遠い者は御国から遠い」(ディデュモス『詩編註解88,8』PG 39,1488D)。

つまり「神の国」と「火」とは、究極的には同じリアリティーを指し示しているわけです。「火」としての「神の国」の到来は、人間がこの世界で生み出す「悪」に終わりを告げるものなのです。

悪の終わりは、最終的には、キリストの十字架の死というかたちで実現し、世界中に告げ知らされたのだ、と私は思います。神の子のむごたらしい死は、私たちの悪がいかに醜いものであるかを、そこには何の未来もないことを告げています。なるほど悪は、この世界に未だに存在します。私がそれを生み出しているからです。しかしキリストは、そのような悪を、我が身に引き受けたのでした。

最近、『ザ・パッション』という映画が上映されましたね。残念ながら、私は見ていません。でも何人かの「見た」という人たちから、感想をうかがいました。その中に、「キリストがあんなに苦しんだとは知らなかった。暴力シーンは強烈だったけれど、後になって、尊敬の念のようなものが沸いてきた」と言った人がいました。

『使徒信条』にも、イエスの地上の生涯に関して、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という文言があります。イエスの生涯を一言で要約するならば、それは「苦しみを受ける」という生涯であった、という意味だと思います。

このように見てきますと、「私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。むしろ分裂だ」(51節)というイエスの言葉は、〈見せかけの平和〉を拒絶するものと考えてよいでしょう。この世界に実際に存在する悪と苦しみを、〈人間は他人に対してしょせんは狼(おおかみ)のような存在なのだ〉といって誤魔化したり、自分の欲望を妨げる者たちを「テロリスト」と呼んで排除しようとしたりすることで、「私たちは平和だ」と主張する――そのような生き方を、イエスは批判したのです。そして、そのように生きたイエスは虐殺されましたが、神は彼に新しい命を与えたのでした。

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キリスト教が平和を求める宗教であるのは、復活者であるキリストの死が、私たちに「悪」の終わりを告げているからです。聖霊降臨祭を祝った私たちは、イエスが投じようとした「火」が、愛を燃え立たせる聖霊の「炎」となって、いま私たちに注がれていることを知っています。

同時に私たちは、見せかけの平和に抵抗する者が大きな敵対心を呼び起こすことも知っています。イエスは家族を捨てて、放浪しながら「神の国」を宣教しましたが、彼の民族からは死の宣告を受けました。イエスの「幸いなるかな」の言葉の中に、弟子たちは、彼らを襲うであろう迫害について聞きました(マタイ5,9)。初期キリスト教の諸文献には、キリスト信仰が家族の分裂をもたらしたことについて、たくさん証言があります。確かに「火」は燃え上がったのです。

もちろん私たちは、家族を大切にしたいと思いますし、社会に分裂ではなく統合をもたらしたいと願います。しかし家族と社会における「平和」が、弱い立場に置かれた人々の苦しみを足台にしたものとなるとき、イエスに従いつつ勇気をもって、そのような見せかけの平和に対して「否」と言いたいと思います。



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