家族音楽礼拝: 子供たちへのメッセージ
2004・6・13

「なかなおり」

土田 潤子

マタイ福音書5,9
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

今ここに座っているお友だちの中で一番小さい人は何才? 3才?4才? 一番大きいひとは高校生だから、16才とか、17才ですね。 でも今日はもっと大きなお友だち(?)と一緒の礼拝です。うれしいですね。

わたしは、今、保育園というところでお仕事をしています。お仕事といっても、みんなよりもう少し小さい人たちと毎日遊んでいます。 わたしのクラスには、1才の子供たちがいます。この子供たちとは、去年のゼロ才のときから一緒なのです。 赤ちゃんて、すごいです。 ゼロ才の時には、みんな、ほとんど寝てばかりでした。 食べて、寝て、泣いて、手足をバタバタして・・・。そのくらいしかできなかったのに、1才になると、はいはいして、つかまり立ちをして、歩き出します。

もうすっかりお話もするし、おもちゃや絵本に興味を持って遊べるようになります。 いろいろなところへ動いていくことができて、みんながいろいろなことができるようになると、楽しいこともいっぱいだけれど、今までになかったおもちゃや絵本のとりあい、「ケンカ」がおこってきます。

あちらこちらで、おもちゃや絵本のひっぱりあいがはじまります。小さい手でもぎゅーっとおもちゃをにぎったままお互いはなしません。 みんなカオをまっ赤にして、「うーん。」とか「きゃーっ」とか言いながら、つな引きです。 勝負がつかないと、そのうちお口が出てきて、相手の腕を「ガブ」と噛んでしまう子もいます。 噛まれた子は、思わず手をはなして大泣きです。 歯型がついたところをお水で冷やしたり、「冷えピタ」を貼ったり大騒ぎです。

すこし落ちついてから、先生が噛んだ子に「○○ちゃん、いたいいたいって泣いてるよ。ごめんね、しようね。」といいます。 噛んだ子もかまれた子も「ごめんね」「い・い・よ」と「なかなおり」をしてまた楽しく遊びはじめます。

けれども、ひとりだけ、いつもぜったいお友だちのおもちゃをとらない子がいました。その子は、いつも自分のおもちゃが取られそうになると、他の子のように「やーよ。」と言わずに、パッと手をはなして、他のおもちゃの所へいくのです。それなのにその子のうでには、歯のあとがついていることが時々ありました。変だなと思ってよーく見ていると、自分で自分のうでを噛んでいたのです。 お友だちにやさしくね、とかおもちゃは貸してあげようね、といわれて、いっしょうけんめいがまんをして、おもちゃを貸してあげたりしていたのですが、どうしてもがまんできない時は、自分のうでをがぶっと噛んでいたのです。

みんなが、ひとつのおへやで楽しく遊ぶには、お互いに自分のきもちをちゃんと言って、ちゃんとケンカをして、ちゃんとなかなおりをすることが大切なのです。けれども、自分のきもちを、うまく言える子と、言えない子がいるんです。

そこでひとつのルールが生まれていきます。「やーよ。」といわれたら、やめること。「かして。」「あとで。」「順番ね。」「1、2、3、4・・・9、10。おまけのおまけの汽車ポッポ、ポーッとなったら代わりましょ。ポ、ポ、お・ま・け。」
それで少しは噛んだりすることもへっていきます。

たった1才!!の子どもたちの世界にもこんなにいろいろなことが毎日おこっています。もう少し大きくなった私たちはどうでしょう。わが家でも「ごめん、じゃすまされないぞ。」とか、「いいよ。」なんてとんでもない。「あやまるのはお前が先。順番はオレが先。」ということがたくさん。

大人と大人のあいだ、国と国のあいだにも、小さなケンカ、大きなケンカ、がない日はありません。平和でいることをみんなが求めているのに、それはなかなか手に入らないでいます。

今日、はじめに読んだ聖書は、新しい訳で「平和を実現する人々は、幸いである」と書いてありましたが、もうひとつ前の訳では、「平和をつくり出す人々は幸いである」と書いてあります。「平和」は、じっと待っているんではなくて、つくり出すもの。そのつくり出す力を、神さまがちゃんと私たちに与えて下さっているということは、1才の赤ちゃんを見ていてもわかります。この力をしまっておかないでちゃんと使っていけば、平和をつくり出せるのかもしれません。

なぜなら、私たちは、イェスさまを知っているからです。

「ごめんね。」「いいよ。」もなかなか言うことのできない弱い私たちに、十字架にかかった時でさえも、「いいよ。」といちばんはじめに私たちをゆるして下さるイェスさま。わたしたちのまん中に入ってきて下さって、いちばんはじめに私たちに「なかなおり」を教えて下さったイェスさまのことを知っています。

このあと歌う「We are the church!」の中で、私たちは手話をつけてうたいますが、イェスさまをあらわす手話は、両手のクギのあとを示す形ですね。 十字架にかかっても私たちをゆるして下さったイェスさまについて平和をつくり出す人になれますように。子どもも大人も。



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