2004・5・30

「心を騒がせるな」


イザヤ書50,4−9 ヨハネ福音書14,25−31

「心を騒がせる」という経験は、我々にも無縁のものではない。思いがけなく人から強く責められたり、第三者を介して心ない噂が耳に入ったりすると、心は波立って夜も眠れない。やや冷静になってから反省して、自分にも責任があることに気づかされたときも、別の意味で心は騒ぐ。誰にもそういう経験があるのではないか。

あるいは、日本人ジャーナリストが殺されたとか、パレスチナでイスラエル軍がやりたい放題をしているとかいうニュースを聞くときも、心は騒ぐ。イラクで起こった虐待事件の写真を見ても同様である。

「さとうきび畑」という歌がある。作詞・作曲した寺島尚彦さんは1964年、復帰前の沖縄を訪ねてさとうきび畑を歩いていたとき、案内者から「この土の中にはまだたくさんの戦没者の遺骨が埋まったままになっています」と聞かされ、頭越しに吹き抜ける「風の中に彼らの怒号と嗚咽をはっきりと聞いた」という。それを詩にした。

「ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ 今日もみわたすかぎりに 緑の波がうねる 夏の陽ざしの中で」(1節)。3節は、「ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽ざしの中で」。哀切だが抑制のきいた歌詞が11節ある。そして、最後の節は、「ざわわ ざわわ ざわわ 風に涙はかわいても ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは消えない」である。「ざわわ」という印象的な音は、実に66回繰り返される。これは、あのひどい戦争で死んでいった無数の人々の嗚咽であり、戦争の無意味さ・残酷さを嘆く心の波立ちの音だ。この歌を聞くと、我々の心も「ざわわ ざわわ」と騒ぐ。

人は、生きている限り、大小さまざまの「ざわわ」を聞く。イエスが「心を騒がせるな」と言われたのもそのためだ。しかし、それは単に個人的な人生経験だけでなく、もっと深く、人生の基本的な在りようと関係しているように思われる。

ヨハネ福音書14章は、イエスが十字架で殺される直前に行った「告別説教」の一部である。俄かな告別の言葉に、弟子たちは「もしかしたら見捨てられるのではないか」と不安を覚えたらしい。「主よ、どこへ行かれるのですか」と問いただす。ちょうど、子供に留守番をさせて両親が出かけるとき子供が不安を覚えるように。ペトロも問い(13,36)、トマスも問い(14,5)、フィリポも同じ意味の質問をした(14,8)。彼らはこれまで常にイエスと行動を共にして来たのだから、本当ならイエスがこれから歩んで行く道については正確に分かっていなければならない筈だ。少し鈍感だと思うが、彼らの不安も分からなくはない。弟子たちは、「見捨てられた」と感じたのではないか。そんなとき、我々もまた、心を騒がせずにはいられない。先週の小泉首相の訪朝で拉致被害者の家族があれほど怒ったのは、自分たちが事実上「見捨てられたのではないか」と感じたからであろう。

だが、イエスは、この無理解な弟子たちに向かって優しく語りかける。ちょうど子供を残して出かける親たちが、繰り返し「何も心配しなくていいよ」と慰めるようだ。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(14,1)。そして、イエスは言う。自分はこれから十字架にかけられるが、無意味に死ぬわけではない。天の父のもとに行って、あなたがたのために場所を用意するのだ。それから「戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(3)。つまり、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(18)

しかし、弟子たちはなかなか納得しない。だから最後にイエスは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(27) と固く約束して、彼らの心から不安を拭い去るのである。「心を騒がせるな。おびえるな」

こういうことは、我々人間の間では、単に調子のいい口約束(リップサービス)で終わることが多い。イエスの約束がそうではないという保証はどこにあるのか?

イエスがここで聖霊に言及していることに注目したい。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」(26)。聖霊があなたがたのところに神から送られる、というのである。そして、先ほど歌った讃美歌340番にもあるように、「慰め主」なる聖霊が来ると、我々の心にすべての尊い賜物が注がれ (2節)、我々の心に愛の火が燃やされ(3節)、悪から遠ざけられて、平和が与えられる(5節)。

聖霊は、このように我々の内に働く神の力である。「霊」という言葉は、もともと「息」とか「風」を意味した。風は目に見えない。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」(3,8)。そして、自由にどこへでも届く。そのように、聖霊はあなたがたの中に入り、内側から動かす。だから、「弁護者」、つまり、あなたがたの味方だ、と言われるのである。

イエスが「心を騒がせるな。おびえるな」という、その根拠は目に見える証拠としては提出されない。だが、目には見えないが風のように自由に働く神の力が、聖霊が我々の内に注がれるとイエスは約束された。このことを信じよう。



文中引用した「さとうきび畑」の著作権は、作詞作曲者である寺島尚彦さんが保有し、(社)日本音楽著作権協会(JASRAC)に権利を信託しています(作品コード 036-1066-7)。ここでは説教の構成上妥当な範囲に限定した、歌詞の一部の「引用」とみなし、JASRACの許諾を取らずに掲載していることをご了承ください。 著作権者に無断で印刷、コピー、配布等を行うと罰せられる場合があります。



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