2004・5・23

「天に上げられたキリスト」


出エジプト記13,17-22使徒言行録1,6-11

 教会暦によると、先週の20日(木)は主イエスが天に上げられた「昇天日」であった。この日は、日本のキリスト教会ではあまり重んじられていないが、西欧では祝日である。教会によっては礼拝を守るところもある。つまり、「昇天」は信仰生活にとって重要な意味を持つと考えられている。今日はこの点について述べたい。

使徒言行録1章9節には、「話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」とある。この場面を、レンブラントは1636年に素晴らしい絵に描いた (スライドを映写)。

真ん中に白い衣を着たイエスの姿がある。以前、不思議な団体が岐阜県の山の中に出現したことがある。全員が白い布で体を覆い、宿営地の立ち木全部に白布を巻いた。付近の住民は、「白」は薄気味悪い色だという印象を持ったという。だが、聖書では「白」は天上の色、キリストの色である。ヨハネ黙示録7章9節以下に、「白い衣を着た大群衆」が天上で神を礼拝する場面があるが、その「白い衣」についてヨハネは、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊(=キリスト)の血で洗って白くした」(14)と説明する。イエスが白い衣を着るのは当然である。

レンブラントは、そのイエスが祝福するように両手を広げた姿で天に上げられるところを描いた。雲の上に立ち、羽ばたく天使たちが下から支えている。下の方では弟子たちがそれを仰いでいる。9節の「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」という場面の見事な描写だ。ただ、イエスの姿はまだ見えている。見えなくなったイエスを描くことはできないので、レンブラントは「これから見えなくなる」ことを暗示したのであろう。

この「見えなくなる」ということが、「昇天」の一つの意味ではないだろうか。1章3節「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」と言われているように、イエスは死後四十日にわたって弟子たちの目に「見えて」いた。それが復活ということだが、これからは「見えなく」なる。

赤ん坊は、母親の姿が見えなくなるとベソをかく。ペットの小犬は、飼い主が店の外につないで買い物に入って行き、なかなか出て来ないと、不安そうな顔をしてクンクン鳴く。私たちは赤ん坊ではないし、ペットの小犬でもないが、頼りにしていた人がいなくなると、やはり不安になる。

出エジプト記32章によると、「十戒」を授かるために山に登ったモーセが「なかなか下りて来ないのを見て」(1)、イスラエルの民は不安で堪らなくなり、金の子牛を造って拝んだという。指導者不在による不安が、民を偶像礼拝に駆り立てたのだ。イエスの姿が「見えなく」なったとき、弟子たちの中にも同じ不安が生じたのではないか。

聖書は、頼るべきものがない不安に苛まれる人々に常に温かい目を注いでいるが、その代表は「孤児」「やもめ」、そして「寄留の外国人」であった。親を失った子供・夫を失った妻・故郷を失った人々。社会保障制度がまだ確立していなかった当時、これらの人々は文字通り「寄る辺なき人々」であった。

同じような不安は、基本的には今も存在する。パレスチナやイラクでは、圧倒的な武力を誇るイスラエル軍や米軍が毎日のように民家を戦車で蹂躪し、婚礼の席にミサイルを撃ち込んで、「孤児」や「やもめ」を新しく作り出しているではないか。テロも同じだ。

あるいは、ごく普通の市民が、ある日、理由も分からずにいきなり拘束されたり、拉致されたりする。イラクでは、その人たちが刑務所に入れられて暴力を振るわれ、裸にされ、笑いものにされた。一体、何のために?その意味が分からない。

私たちの国にも、不安は広く根を張っている。真面目に働いている庶民には、「わけが分からない」ことが多すぎるのである。年金の先行きが危ないという。だが、制度を改めると言っている政治家が、果たして信用できるのか? あるいは、公道を走っているトラックのタイヤが突然外れて歩行者に襲いかかり、命を奪うことがある。同じ車を大量生産している大企業は、そうした致命的な欠陥をひたすら隠してきたという。銀行の不良債権、薬害、教師や警察官による不祥事等々、数え上げればきりがない。豊かな社会の根底に、「頼れるものがない」という不安が、広がっている。この喪失感が私たちを苦しめる。「意味喪失の時代」(大塚久雄)。

「神の国は近い」と約束して下さった主イエス、どんな人も大切にして下さったイエス、「神、我らと共に在す(インマヌエル)」と教えられたイエスは、本当に私たちと共におられるのか? どこかへ行ってしまったのではないか?

だが、主イエスは私たちの目には「見えなく」なったが、私たちを見捨ててどこかへ行ったのではない。「天に上げられた」のである。使徒信条に「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまはん」と告白されているように、主イエスは今、父なる神の全能の力を発揮することができる立場にいるのである。これが「昇天」のもう一つの意味である。

イスラエルの民が「昼は雲の柱…夜は火の柱」を見上げて40年の荒れ野の旅をやり遂げたように、私たちも「天上げられたキリスト」を見上げて進もう。



礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる