今日の箇所の最後に、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33)と言われている。
「世で苦難がある」とか、「世に勝つ」とか言う。その「世」の原語(ギリシャ語)は「コスモス」で、普通、「世界」とか「宇宙」とか訳される言葉だ。しかし、ヨハネの「世」は、ただの世界というより、「神に敵対する世界」を指すことが多い。
たとえば、1章に「まことの光が世に来てすべての人を照らす」(9)という言葉がある。これはイエスのことである。彼こそは「すべての人を照らすまことの光」であり、万物を成り立たせる「言」(ロゴス)、つまり、真理そのものである。このイエスが世に来た。だが、それに続けてヨハネは、「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(10)と言う。「世」は神のロゴスそのものであるイエスを受け入れず、十字架にかけて殺してしまった。このように神に敵対する世界がヨハネの「世」である。
イエスを受け入れず、彼に現わされ神の意志、つまり、「互いに愛し合いなさい」という掟に逆らって互いに憎み合い、殺し合う世界。これが「世」なのである。
先週、一人の米国民間人がイラクの過激派グループによって殺された。悲しいことにこうした事件は、最近のイラクやパレスチナでは「日常茶飯事」になってしまったが、このニュースが特別に戦慄的だったのは、彼がビデオ・カメラの前に引き据えられ、鋭利なナイフで首を切られるところを撮影され、その衝撃的な映像が全世界に配信されたからである。さすがに各テレビ局は、最も残酷なシーンは放映しなかったが。
犯行グループは、これは米軍による受刑者虐待に対する報復だという。これに対して、ブッシュ大統領は「これは決して許されない非人道的行為だ」という声明を出して、報復を誓った。これで、おぞましい殺し合いは益々エスカレートするだろう。その予感に私たちは怯えている。これが「世」である。
私たちはこのような「世」に住んでいるのである。そのような世の中で、神の意志に従って生きよう、イエスが言われたように「互いに愛し合う」生活を実現したいと願う人々は苦しみを受ける、とヨハネは言う。「あなたがたには世で苦難がある」。
確かに、人類の歴史はそのことを物語っている。イエスが十字架につけられる直前、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタイ23,37)と嘆いた通りで、イエス自身も苦しみを受けた。
イエスだけではない。真の平和を求めた多くの人々が、「世」では苦しまなければならなかった。インドのガンジーは、イエスの「山上の説教」に触発されて絶対非暴力を唱え、民族和解のために働いた人である。その一生は祈りと、禁欲と、断食によって象徴されたが、最後は暗殺された。そのガンジーに「非暴力的抵抗」を学んで公民権運動を指導したのがキング牧師だが、その彼も銃撃されて死んだ。エルサルバドルのロメロ大司教は、貧しい人々のために勇気をもって社会的不正に抗議した末に、ミサの最中、機関銃で蜂の巣のようにされた。これが「世」である。
しかし、イエスは「あなたがたには世で苦難がある」というこの言葉を、一握りの偉大な人々の殉教を念頭において語ったのではなかった。普通の、平凡な弟子たちに対して、優しさをこめて語ったのである。
「苦難」とは、もともと「プレッシャー」という意味の言葉である。私たちは「神の御心に従って生きたい」、「イエスが教えられたように互いに愛し合って生きたい」と心から願っている。そのとき、さまざまな形で「世」から圧迫を受ける。
先ず、「どうせこの世の中はそんなに理想的には行かないさ」という現実主義の声が絶えず聞こえて来て、志を挫かれる。これは「苦難」の一段階だ。
このような挫折が度重なると、「投げやり」になる。祈っても祈っても止まない戦争やテロ。弱い立場にいる人々の絶望的な眼差しや涙。それらを見るたびに、私たちの腹の底に、「どうにもならない」という気分が湧いて来るのを感じないだろうか。最近のわが国の政界で起こっていることを見ても、「投げやり」な気分は深まるばかりだ。これもまた、苦難の一つの形なのである。
こういう圧迫を受け続けると、私たちは遂には絶望する。パウロは、「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまいました」(コリント二1,8)と正直に告白したことがあるが、絶望こそは「苦難」の最も普遍的な形なのだ。イエスが、「あなたがたには世で苦難がある」と言われたのは、このようにさまざまな形で世からの圧迫があるということを示すためであった。
だが、イエスはこれらの言葉の最後に、こう言われた。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。これは、十字架上で死に、三日目に復活して、最後の敵である死に勝利した方の言葉である。わたしは既に世に勝っている!
挫折してもいい。時に投げやりになるのも仕方がない。だが、最後にはこの言葉に帰って来よう。そして、勇気を出そうではないか。