イエスは弟子たちに向かって、「わたしはまことのぶどうの木」と言われた。他の植物を例にとっても一向構わないわけだが、「ぶどう」は、弟子たちにとって一番身近な栽培植物である。幹から枝が長く伸びて、その先に葉が繁り、花が咲き、実がなる。しかし、虫食いなどが原因で養分を受けられない枝は、実を結ばない。それは切り落とす。切り落とされた枝は「外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6)。
このごくありふれた生活経験を題材にして、主イエスは、「私につながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(4)と教えられた。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4)。この比喩は、弟子たちには分かり易かったであろう。復活の主イエスと彼らとの間の「生命的なつながり」がどれほど大切か。そのことが、ここでは生き生きと伝えられている。
私たちの場合も同じだ。枝である私たちが、幹であるイエス、つまり復活の主につながり、彼もまた枝である私たちにつながっていて下さる。私たちは、この「生命的なつながり」の中で、初めて本当に生き生きと生きることができるのである。
さて、ヨハネはこの「生命的なつながり」を、さらに具体的に、「わたしの言葉があなたがたの内にある」(7)ことだと言い換える。「つながり」とは、復活の主イエスの言葉が私たちの内にいつも響きわたっているということである。
では、それはどのような言葉だろうか? 一言で言えば、「愛」である。
ヨハネ13,34によると、イエスは「あなたがたに新しい掟を与える」と言って、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられた。この「新しい掟」こそ、常に私たちの内にあるべきイエスの言葉である。
だが、その「新しさ」は、パリやミラノやニューヨークや東京で毎年発表される新しいモードや、最新の性能を持ったコンピュータ、今年のトヨタの新車といったものの「新しさ」とは違う。これらの「新しさ」は、一時は世の人の好奇心に「ウケる」かも知れないが、一年もすれば古くなり、やがて忘れ去られる。
イエスの言葉の「新しさ」はそうではない。これまでの世界を支配してきた「古い原理に代わるもの」という意味で、「全く新しい」道なのである。
この点、イエスが「山上の説教」の中で、「昔の人は・・・」という言い方を繰り返していることは、注目に値する。そのことによって彼は、世間に「当り前のこと」として通用している考え方、すなわち、「目には目を、歯には歯を」(マタイ5,38)とか、「隣人を愛し、敵を憎め」(同43)という考え方を「昔の人の」生活原理だ、つまり「過去のもの」だと言って斥けたのである。その上で彼は、「しかし、わたしは言う」と言って、復讐そのものを禁じ、「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」(44)と命じた。これがイエスの「新しさ」である。
人類の将来にとって「新しい掟」は、「愛」でなければならない。今日の箇所に、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(9)と言われているのは、そういう意味である。
この掟を軽んじて、「目には目を、歯には歯を」とか「敵を憎め」という生き方を選ぶとき、世界はどんなに惨めな状態になるか。私たちはそれを、文字通り「イヤというほど」経験してきた。私たちの国は、明治維新以来、度々戦争を起こして近隣諸国・諸民族を散々苦しめた挙句、沖縄の悲惨な地上戦や廣島・長崎の原爆地獄を経て惨憺たる敗北に終わったではないか。「ホロコースト」の悲劇を味わったイスラエルが、今度は自らパレスチナ人を虐殺している。こんなことを続けている限り、人類の前途に希望はないということにどうして気がつかないのか。ベトナムを始め世界各地で苦い経験を重ねてきた米国も、今、イラクで同じことを繰り返し、憎しみと報復の泥沼に陥っている。このままでは、双方とも滅びかねない。
「報復こそ正義である」という考え方は、「昔の人の掟」なのである。これを克服し、「互いに愛し合いなさい」という「新しい掟」に従って「共に生きる」道を求めない限り、世界には将来はない。
その意味で、昨日25カ国に拡大した「ヨーロッパ連合」は、多くの問題を抱えて前途は必ずしも平坦とは言えないが、「共生」を求める人類の悲願を実現に移すための試みであることは確かだ。「新しい掟」に沿うものとして、これを歓迎したい。
それと並んで人類の英知を示すものが、「日本国憲法」であろう。私は、この憲法を絶対化するつもりはないが、少なくともここにはイエスの「新しい掟」の精神が盛り込まれていると思っている。私たちはこの憲法を誇っていい。
とくに第9条。「(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。
昨日の「朝日新聞」によると、依然60%以上が第9条を変えることに反対だそうだが、全体の流れは改憲に傾きつつある。既に破綻してしまった「古い掟」にもう一度戻ろうという考えの人も増えている。危険な兆候である。
その中で、私たちはどこまでもイエスの愛にとどまりたいと切に願うものである。