イースター家族礼拝 (2004・4・11)

「永遠に変わらないキリスト」

村上 伸

ヘブライ人への手紙 13,7〜8

我々は今日、イースターにふさわしい喜びの中にいる。先週イラクで人質に取られた三人が24時間以内に解放される!ほとんど死に定められた彼らが、死の恐怖から解き放たれた。先ずはこのことを、三人とともに、そして、ご家族とともに喜びたい。

さて、このところ私はヘブライ書によって主イエスの受難の意味を語って来た。先週はとくに、イエスが罪人たちの反抗を「忍耐された」(12,3)という言い方に注目した。彼は、自分を殺そうとする人々の罪を黙って「耐え忍ばれた」というのである。

「耐え忍ぶ」ということは、相手を愛していなければできないことである。愛する者だけが忍耐することができる。わが子を愛する親や生徒を愛する教師は、子供がどんなに反抗的になったときでも、本心から見捨てたりはしないものだ。もちろん、親も教師も完全な人間ではないから、腹を立てて怒鳴ったりすることはある。しかし、望みを捨てることはしない。忍耐してその子が成長するのを待つ。忍耐こそは愛のしるしである。

イエスは、祭司長や律法学者たちの「自己絶対化」によって、あるいはローマ総督ピラトの「責任放棄」によって、または時流に流される群衆の「無節操」によって、さらには弟子たちの弱さゆえの「裏切り」によって、十字架につけられた。しかし、彼は「罪人たちのこのような反抗」に暴力をもって報復せず、決して呪わず、どこまでも忍耐した。これこそは、この世に対する深い愛の証である。

さてヘブライ書は、このイエスが十字架上で死んだ後、「神の玉座の右にお座りになった」(12,2)と言う。復活したという意味だ。そして「復活」とは、この世の人々の罪によって一時は抹殺されてしまったかに見えたイエスが、実は「神の力によって生き続けている」ということに他ならない。今日の所に、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(8)とあるのも、同じ意味である。

だが、この場合の「イエス・キリスト」とは、イエス個人のことを指してもいるが、それ以上に、彼が慈しんだ「いのち」のことを意味していると考えたい。彼が愛したすべての「いのち」である。野の花、空の鳥。小さな子供たち。貧しさや病苦に悩み、悲しみに涙する人々。心無い政治家たちが「正義」を口にしながら始める戦争や無差別の報復テロによって生活を破壊される無告の民。イエスは、これら小さな存在の中に息づく「いのち」、神によって始められ・育まれている「いのち」を、この上なく慈しまれた。この「いのち」に対する愛は、イエスの肉体の死とともに消えてしまうようなものではない。永遠に真理であり続ける。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることがない」とは、具体的に言えばそういう意味である。

このことを、弟子たちはイエスの死後になって初めて悟った。イエスは彼らの中に、従って、我々の中に復活したのである。だから、我々は今後、「いのち」への畏敬の念を失うことはできない。「いのち」の芽を摘んではならず、「いのち」を傷つけたり奪ったりするあらゆる暴力に対して「否!」と言わなければならない。

最後に、今回の事件について再び触れておきたい。人質は解放された。だが、問題そのものが解決されたわけではない。9・11の恐ろしいテロがそもそもの発端だとブッシュ大統領は言うが、9・11自体、それ以前の米国のやり方に対する反発から惹き起こされた事件である。そこまで追い詰めたのは自分たちの責任だという反省がないままに、米国は「テロを根絶するため」と称して強引にイラク戦争を始め、日本はそれに追随した。フセイン政権は倒したものの、テロは却って拡散し、モスクを攻撃するという暴挙に出るに及んで混乱はいよいよ広がり、収まる気配がない。今回の事件もその流れの中で起こったのだから、「テロリストには屈服しない」と息巻くだけでは反発を買うだけだ。

こうした問題が渦巻く中で、我々は「イエスが復活された」ということを心に刻もう。「いのち」を愛することには永遠の価値があるということ。そして、イエスを復活させた神は、「いのち」を損なうすべての暴力を決してお望みにならない、ということを!そして、あらゆる「いのち」の根源である神に信頼しよう。



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