棕櫚主日(2004・4・4)

「十字架の死を耐え忍んだ方」

村上 伸

イザヤ書 53,1-12ヘブライ書12,1-3

 今日から受難週(聖週間)が始まる。この1週間に起こったことを、マルコ福音書の受苦物語によってなぞってみよう。今日の日曜日に、イエスはエルサレムに入城した。この時はまだ、多くの人がイエスを歓迎していた。群衆は手に手に「葉のついた枝」(一説ではナツメヤシ)を持って「ホサナ。主の名によってこられる方に、祝福があるように」11,9)と歓呼したという。この日曜日がPalm Sundayと呼ばれるのはそのためである。「棕櫚」は恐らく誤訳ではないか。

 群衆がそのように歓迎するのを見て、ユダヤ人の指導者たち(祭司長や律法学者)は妬んだ(15,10)。あるいは、危機感を募らせた。そこで、過越祭の二日前になるとイエスを殺す計画を具体化し始めた(14,1)。弟子たちの中にも動揺が生じ、ユダなどはイエスを売り渡すために祭司長たちと接触する(14,10)。イエスは、このような水面下の動きに気づいていた。だから彼は弟子たちに向かって何度か遺言めいたことを言い、別れの食事もした(14,12)。ゲッセマネの園では、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と心境を洩らし(14,34)、「この杯をわたしから取りのけてください」と三度繰り返して祈った(14,36)。その間、最も信頼する「弟子たちは眠っていた」14,37)。

 それから、祭司長や律法学者たちの手先が、剣や棒を持ってイエスを捕えにくる。ユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ」14,44)と合図を決めて逮捕の手引きをする。そのとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」14,50)。

 こうして、イエスは宗教裁判にかけられ、神を「冒涜した」という罪を着せられて死刑を宣告される(14,64)。周りにいた人たちから唾を吐きかけられ、拳骨で殴られ、下役たちにも平手で打たれる。イエスが最も信頼していた弟子のペトロは、「そんな人は知らない」14,71)と、三度も知らぬ顔をする。ローマ総督ピラトの官邸では、群集が渋るピラトに向かって、釈放するなら凶悪犯人バラバのほうにしろ、イエスは「十字架につけろ」15,13)と怒号し、遂に十字架刑を認めさせる。イエスはさんざん侮辱された後、十字架を無理に担がせられてゴルゴタの丘まで歩く。そこで二人の強盗と一緒に十字架に釘付けにされる。金曜日の朝9時であった(15,25)。正午ごろ、あたりは真っ暗になる。その暗黒の中で、3時にイエスは大声で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」15,34)と叫んで息を引き取る。

 ――これが、この1週間に起こったことである。今日のヘブライ書が、「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んだ」(12,2)と言うのはこのことである。

 一体、ここで起こったことは何だったのか?

 ヘブライ書が「罪びとたちのこのような反抗」(3)と言っているように、人間のあらゆる罪が明らかになり、罪びとたちの神に対するあらゆる反抗が露呈されたのである。

 先ず、律法を「原理主義的に」守ろうとした律法学者や祭司長の問題がある。彼らは、律法をその本来の精神である「愛」から解釈したイエスを認めず、彼を殺した。これは、今日も原理主義者によく見られる「自己絶対化」の罪である。次に、総督ピラトであるが、彼はイエスを殺すことが間違いであることに気づいていながら、自己保身のためにこれを黙認した。これは権力者にしばしば見られる「責任回避」の罪である。第三に群衆の問題だ。彼らは初めイエスを歓迎していたが、権力者の世論操作によって簡単に態度を変えた。これは時流に流されて右に行ったり左に行ったりする「付和雷同」・「無節操」の罪である。そして最後に、弟子たちだ。彼らはイエスを信じ愛していながら、彼を裏切って逃げ去った。これは「弱さによる裏切り」の罪である。

 もちろん、これはあの一週間だけの現象ではない。旧約聖書によれば、最初の人類アダムとエバが既に同じような罪を犯しており、そしてそれは現代に至るまで続いている。戦時中に日本が犯した罪や日本の教会の過ちを考える時、ベトナム戦争・各地の民族紛争・イラク戦争などを振り返る時、あるいは、今パレスチナでイスラエルがやっていることを考える時、そこにも人間の自己絶対化・無責任・無節操・弱さが渦を巻いていることに誰もが気づくはずだ。罪びとたちのこのような反抗!

 それらがイエスの上に、典型的な形で、しかも集中して襲いかかり、遂に、あのように善い方を抹殺してしまった。我々の世界の現実が露呈されたのである。

 だが、それにもかかわらず、この世界は絶望ではない。イエスは確かに、このような仕方で世界の罪を露わにしたが、決して呪わなかった。ルカによると、彼はむしろ、自分を十字架につけた人々のために「父よ、彼らをお赦しください」(23,34)と祈り、一緒に処刑された犯罪人の一人が自らの罪を認めて憐れみを乞うた時、「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」(23,43)と慰められた。これは象徴的だ。

 今日のヘブライ書に、「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び・・・御自分に対する罪びとたちのこのような反抗を忍耐された」(12,2-3)とあるが、彼は罪人を呪ったり断罪したりせず、十字架の死を耐え忍ぶことによって罪人を受け入れたのだ。我々の世界は罪に満ちているが、見捨てられてはいない。ぺトロの手紙一には、こう言われている。「キリストは・・・ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(2,23-24)。ここに、我々の慰めがある。



礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる