受難節第三主日礼拝 (2004・3・14)

「永遠の贖い」

村上 伸

出エジプト記 32,30-35ヘブライ人への手紙 9,11-14

受難節に入ってから、私は『ヘブライ人への手紙』に基づいて「大祭司キリスト」について述べてきた。既に明らかなように、大祭司の一番重要な任務は、自分と家族、また、すべてのイスラエル人のために、年に一度「至聖所」に入って雄牛や雄山羊を犠牲に捧げ、その血を振りまいて「罪の贖い」の儀式を行うことであった。

一体「罪の贖い」とは何だろうか?

我々は罪を犯す。いや、パウロが深刻な口調で嘆いているように、「自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっている」(ローマ7,19)。むしろ「罪に捕らえられた」状態であって、いわば「罪の奴隷」(ローマ6,17)だ。そのような状態から我々を取り戻すこと、つまり、罪から解放することを、聖書は「贖う」と言うのである。

だが、一体、「雄牛や雄山羊の血を振りまく」ことがなぜ「罪の贖い」になるのか?

正直に白状すると、私は「血」に弱い。自分の手足に負った傷から流れる少量の血ぐらいは平気だが、テロの爆弾で吹き飛ばされた人々の大量の血などは、たとえテレビの画面であっても正視することができない。だから、「雄牛や雄山羊の血を振りまく」というような旧約聖書の言い方には、いささか辟易する。多くの現代人、特に「清潔志向」の人々は、やはり「グロテスク」と感じるのではないか。カルト宗教では教祖の血を飲ませたりすることもあると聞くが、それと併せて、「宗教には、このような薄気味の悪い側面があるから嫌だ」と言う人も少なくない。

 しかし、「血」には大切な意味がある。よく「心血を注ぐ」と言う。昔の侍は「血判」を押した。血は「いのち」そのものであり、「真実」であり、真実ゆえの「苦しみ」である。古来、他者の血によって罪から解放されるという「犠牲」の思想は、どの民族にもあった。これは理由のないことではない。多くは動物の血が用いられたが、このような発想を単に「古臭い」とか「薄気味悪い」とか言って片づけることはできない。そこには何か現実味がある。

イスラエル民族の場合は、「過越しの祭」というのがそれである。いよいよ明日はエジプトから脱出するという晩、彼らは「傷のない一歳の雄」の子羊を屠り、「その血を取って…家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」(出エジプト記12,7)ように命じられた。その夜、死の天使がエジプト全土をめぐり、すべての初子を殺すが、血が塗ってある家の前は「過ぎ越す」。滅ぼす者の災いはその家には及ばない。

後に、すべての人のために命を捧げたイエスこそ、この「過ぎ越しの小羊」の究極の姿であると信じられた。ミサ曲の中で「アニュス・デイ」(神の子羊)と歌うのもその意味であって、ヘブライ書もこの流れに属するのである。

 もちろん、自己中心的な動機から無理やり「他者の命を犠牲にする」ようなことは、許されない。神は、そんなことはお許しにならない。だが、自分のために「尊い血が流された」と感じるようなことがないだろうか? 例えば、誰かが私のために「心血を注いで」祈ってくれた。アウグステイーヌスのお母さんのように。このことに気づくとき、我々は深い畏れと感動を味わう。主イエスが十字架上で血を流されたのは、正にそのような出来事であった。それは我々を根底から揺り動かす。新しくする。そして、自分が犯した罪の重圧から我々を解放する。我々の罪は贖われる。

 ところで、先刻朗読した出エジプト記32章は、イスラエル民族がモーセの留守中に不安に駆られ、金の子牛の偶像を造って拝んだというスキャンダルを記している。この偶像礼拝は、民の間に倫理的な、とくに性的な退廃をもたらした。「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」(6節)。しかも、その推進役となったのは大祭司アロンだった。重大な罪である。山から下りて来てこの有様を見たモーセは激怒するが、それにもかかわらず、彼は「主なる神をなだめ」(11節)、本来なら大祭司アロンがすべき執り成しの祈りを捧げる。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・」

彼は、さらに続けてこう祈った。「どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(31〜32節)。つまり、救われる者のリストから自分を除外してくれ、というのである。「自分は滅びてもいいから、同胞の罪は赦して下さい」という、この血を流すような自己犠牲的な祈り、大祭司的な祈りが民を救ったのだ。これは、主イエスの十字架の前型と言うべきだろう。

 だが、人間のすることは不完全である。大祭司は幕屋を通って「至聖所」に入るというが、「至聖所」といっても「人間の手で造られた」(11節)テントに過ぎない。また、「雄山羊と若い雄牛の血が・・・罪に汚れた者たちを清める」(13節)と信じられているが、その血も被造物のものである限り、不完全で限界がある。

 これに比べて、キリストは「この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通った」(11節) とヘブライ書は言う。これは「天」を意味する。4章に、「もろもろの天を通過された偉大な大祭司」(14節)と言われている通りである。大祭司は人々を罪から解放するために「至聖所」に入って動物犠牲の儀式を司るが、彼自身、地上の束縛から離れることはない。だが、キリストは自ら我々の罪を背負い、心血を注いで我々のために祈り、実際に血を流して死んだ。そのことを通して彼は、我々に先駆けて死から復活し、天に昇り、こうして日々我々と共にいることが可能になった。

 それ故に、彼は「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」(12節)と言われるのである。



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