受難節第二主日 (2004・3・7)

「涙を流しながら」

村上 伸

創世記14,17−24ヘブライ 5,1−10

 大祭司とは、5章1節にあるように、「人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命された」人のことである。先週も述べたが、彼は年に一度の「贖罪日」にただ一人で「至聖所」に入り、自分のため、自分の家族のため、またイスラエル民族全体のために雄牛や雄山羊などの犠牲を捧げて罪の赦しを祈り、執り成しをするのが務めであった。

 しかし、彼は完全な人間である必要はない。2節「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」とあるように、「弱さ」は大祭司としてむしろ望ましい条件だ、というのである。

 ここで、私は「メンシェンケンナー」というドイツ語を思い出した。「人間というものを知っている人」、あるいは「人の心がよく分かる人」という意味である。日本語では、「酸いも甘いも噛み分けた人」というのに当たるだろうか。これは岩波『ことわざ辞典』によると、「人生経験が豊かで、こまやかな人情に通じ、世間の微妙な事情に通じている人」のことらしい。もっとも、これが悪い方に発揮されると、「海千山千」ということになりかねないから気をつけたほうがいい、とも書いてある。

 大祭司は、「その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねば」(3)ならない。そのように「弱さを身にまとった」人だからこそ、自分自身と他者の罪を赦して頂くために執り成すという「光栄ある任務」(4)を果たすことができるのだ、とヘブライ書の著者は言うのである。

 私の友人に広島の爆心地で被爆した人がいる。何ヶ所かで牧会した後、最後は生まれ故郷の広島に戻り、引退するまでそこで牧師をした。彼が若い頃のことだが、夫人が最初の子を身ごもった時、我々の仲間は放射能の悪い影響が出はしないかと心配したものである。元気な子が産まれて安心したが、翌年、その子は突然肺炎で亡くなった。夫妻の悲しみは言うまでもない。しかし、彼はしばらく経ってから私にこう言った。「教会の中には、大きな悲しみを経験した人が何人もいる。その人たちの気持ちが、今はずっと良く分かるようになった」。

 大祭司について、「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」と言われるのは、これと似ている。とは言っても、「弱さを身にまとった」人がすべて大祭司になれるわけではない。この任務は、「自分で得るのではなく…神から召されて受ける」(4)のである。ヘブライ書はここで、キリストが大祭司であるということを述べているのだが、その際、詩編から引用した二つの言葉をキリストに当てはめる。すなわち、2編7節「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と、110編4節「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」である。この論の進め方は「こじつけ」とは言えないまでも、かなり強引である。しかし、言いたいことの意味は明らかだ。「キリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではない」(5)ということであろう。それは自分から選んだのではなく、神によって上から与えられた務めなのである。

 だからこそ、この務めには苦しみが伴う。自由に選んだ仕事の場合は、極端に言えば、嫌になったらやめればいい。だが、神から与えられた大祭司職は、辛いからと言って放り出すわけには行かない。

 イエスが十字架につけられる直前、オリーブ山で祈った場面を思い起こす。彼はひざまずいて、こう祈った。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」ルカ22,42)。あんなに人を愛した彼が、皆に捨てられて、殺される。この苦い杯! しかし、彼はその杯を投げ出さなかった。「わたしの願いではなく、御心のままに」と祈り、どんなに苦くてもそれを飲み干そうとした。ルカは続けてこう書いている。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44)。

 ヘブライ書が、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(7)と書いたとき、恐らくこの場面を念頭においていたのではないか。

 イエスはただ苦しんだだけではない。深い苦しみの中で、涙を流しながら、ただ神の御心に従順であることを願い、その姿勢を貫いたのである。「多くの苦しみによって従順を学ばれた」(8)というのは、そのことである。

 キリストは「弱さを身にまとっていたから」、あるいは、「苦しみを経験したから」、というだけで大祭司になったのではない。あくまでも神に従順であったがゆえに、「すべての人々に対して、永遠の救いの源となる」(9)ことができ、罪の重荷に打ちひしがれそうになっている人々のために大祭司の務めを果たすことができたのである。

 最後に、メルキゼデクという謎のような人物について一言したい。彼は、「いと高き神の祭司であったサレムの王」(創世記14,18)であった。アブラム(=イスラエル民族の先祖アブラハム)が、略奪された親族の財産を敵の手から取り戻して凱旋したとき、ソドムの王と共に彼を迎えたのがこの人である。その際、ソドムの王が要求がましいことを言ったのに対し、メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来て、ただ彼を祝福した。そのことと関係があるかもしれない。大祭司キリストは、すべての人が罪から贖われるために執り成した。それは、我々に祝福をもたらすために他ならないのである。



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