2004・2・29

「試練に遭われたイエス」

村上 伸

レビ記 16,11-17ヘブライ人への手紙 4,14-16

「祭司」というのは、神に仕えるために置かれた特別職である。最初に選ばれたのは、モーセの兄弟アロンとその四人の息子たちで (出エジプト記28,1)、特にアロンは「大祭司」として神と人との間を執り成す大切な役割を果たした。たとえば、「至聖所」に入って罪の贖い(赦し)の儀式を司ることである(レビ記16,6-17)

幕屋の時代も、後に立派な神殿が立てられてからもそうだが、十戒の二枚の石板を納めた「契約の箱」を安置する所を「至聖所」といった。イスラエル民族の信仰にとって最も神聖な場所である。一般の祭司たちは、通常の礼拝を行なうために聖所に入るが、「垂れ幕の奥の至聖所」までは入れない。それを許されるのは大祭司だけである。彼は一年に一度の「大贖罪日」、つまり第七月の10日に、それは太陽暦の3〜4月頃だが、ただ一人でそこに入る。そして、レビ記によると、先ず自分自身と家族のために犠牲の雄牛を捧げ(16,6)、それからイスラエル全会衆のために雄山羊を捧げて(16,15)、罪の赦しのために儀式を行うのである。

さて、ヘブライ書の著者は、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられています」(14)と言って、イエスを大祭司になぞらえた。イエスは、正に大祭司のように神と人との間に立って万人の罪の赦しのために神に執り成し方であった、というわけであろう。

イエスはある時、「実のならないいちじく」(ルカ13,6-9)の譬えを語られたことがある。―― ある人がぶどう園にいちじくの木を植えた。それからもう三年にもなるのに、一向に実がならない。彼は業を煮やして、園丁に「無駄に土地をふさがせておくことはない、切り倒せ」と命じたところ、園丁が、「御主人様、今年もこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません、もしそれでもだめなら、切り倒して下さい」と答えた、というのである。御主人が神で、園丁はイエスであると、単純に当てはめて読むのはどうかと思うが、イエスがここで、切り倒されても仕方のない木、つまり、いつ裁きを受けても文句の言えないような人のためにも「執り成し」をするつもりであることは確かであろう。

ルカによれば、イエスが十字架につけられるとき、理不尽なやり方で自分を殺そうとしている人々のために、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23,34)と執り成しの祈りを捧げたという。

私は、最近しみじみと思うことがある。私が今生きているのは、自分だけの力によるのではない。私を愛してくれる多くの人が、日々、私のために祈ってくれている。その「執り成し」のお陰である。だが、その人たちの「執り成し」も、イエスの執り成しがあったから成り立っているのではないか。

さて、ヘブライ書の著者は続けてこう言っている。「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです」(15)。ここで「同情」と訳されているギリシャ語は「シュンパテイン」で、英語の「シンパシー」の語源である。これは、本来、「共に苦しむ」という意味だ。大祭司キリストは、あらゆる点において我々と同様に試練に遭われた。だから、私たちの弱さに同情できない筈はない、というのである。

実に、イエスの一生は絶えざる試練の連続であった。そもそも、誕生そのものが「スキャンダル」と言われても仕方がないような事情によっていた (マタイ1,19)。そして、生まれたばかりのイエスは、ヘロデ大王の幼児虐殺を避けて、両親と共に「難民」となってエジプトに逃げなければならなかった(マタイ2,13)。成人し、公の舞台に現れた彼を待ち受けていたものは悪魔の誘惑であり、40日40夜、彼は荒れ野で飢えた(マタイ4,1−2)。その後、彼が接したのは、もっぱら病気や差別や貧困の故に苦しむ人々であり、当時の社会で最下層の人々だった(マタイ4,24)。彼自身も、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ9,58)と言われたほどの苦労を重ねた。その挙げ句、あんなに人々を愛した彼は捨てられ、いわれのない侮りを受け、弟子たちには裏切られて、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15,34)という悲痛な叫びを残して絶命した。これ程苦しい目に遭った人も、そう多くはないであろう。

だが、正にそれ故にこそ、この方は我々のどんな弱さにも同情できる、我々と「共に苦しむ」ことができる、とヘブライ書は言うのである。

ただ、この「罪を犯されなかったが」(15)という言葉に引っかかる人もいるかもしれない。我々は罪を犯す存在であり、正にそれが我々の弱さである。「罪を犯したことのない人が、どうして我々の弱さに同情することができるだろうか」。

私は、ある注解者から、この言葉をイザヤ書53,9の意味で理解することを学んだ。「彼は不法を働かず、その口には偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされた」(9)。そのように取るならば、イエスの苦しみは一層深いものとなり、彼の同情能力はさらに広がるのではないか。福音書によると、彼は目の前で苦しむ人を愛するためには律法を破ることさえ敢えてし、「罪人」と呼ばれることもいとわなかった(マルコ3,1以下)。事実、最後は罪人として処刑された。

このような苦しみをなめた方が、我々の弱さに同情できない筈はない。



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