2004・2・15

「神の秘められた計画」

村上 伸

イザヤ書 40,27−31ローマ 11,25−36

 ローマ書9〜11章で、パウロは「ユダヤ人問題」を扱っている。9章の初めでは先ず、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがある」(2)と個人的な感情を吐露しているが、この「深い悲しみ」、「絶え間ない痛み」はどこから来るのであろうか? それを彼は、9章後半で次のように説明する。「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエル(=ユダヤ人)は義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」30~31)。要するに、ユダヤ人は「つまづきの石につまずいた」(32)ということである。続いて10章の初めでは、それは「自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった」(3)からだ、と言う。「ユダヤ人問題」とはこのことである。

 この問題について、彼はここで旧約聖書を自在に引用しつつ密度の濃い議論を展開する。持って回った言い方も多く、決して分かり易いとは言えない。端的に言えば、「ユダヤ人がイエスを殺した」ことが問題なのだ。彼はそれを「自分の罪」として、「深い悲しみ」と「絶え間ない痛み」をもって問題にしたのである。

 むろん、直接手を下してイエスを殺したのはパウロではない。しかし、彼の考え方・生き方はユダヤ人の生活原理を代表していた。彼はファリサイ派に属する者として、モーセ律法をこの上なく真剣に守り・実行した。少しでもそれを破る者は許すことが出来ず、従って「律法」を敢えて新しく解釈したイエスが冒涜の罪で処刑されたのも当然だと考えていた。だからこそ、イエスの弟子たちを激しく迫害した。要するに、彼は律法主義という「原理」に堅く立っていた。これがイエスを殺したのである。しかも彼は、自分こそ「神の義」を代弁していると信じて疑わず、その「義」が人を殺す結果になるという矛盾に気がつかなった。

 現代の「原理主義者」たちも、しばしば同じ矛盾に陥っている。数年前、アメリカで起こった事件はその一例だろう。ある熱心なクリスチャンが、「殺してはならない」という第六戒を真面目に受け止めるあまり、中絶手術を実行した医者を「第六戒違反だ」と批判した。そこまではいい。だがその人は、あろうことか、その医院に爆弾を投げ込んだのである。医者や看護師、患者が多数死んだり傷ついたりした。「自分の義を求めようとして、神の義に従わない」とはこういうことである。「テロは許せない」と言いながら大規模な戦争を仕掛けるのも同じことだろう。

 パウロも正にそうだったのだ。しかし、ある日突然、「なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9,4)と問い掛けるイエスの声に打たれ、愕然として自らの罪に気づく。自分は、自らの義を求めようとして、神の義に従っていない! これは、パウロ個人に止まらず、ユダヤ人全体の「律法主義」につきまとう問題である。神に選ばれて「律法」を与えられたユダヤ人が、なぜ「律法」本来の精神を踏みにじり、あのように善い方(神の子)を殺してしまったのか?

 パウロは、さんざん苦しんで考えたらしい。その結果、一つの答えを示された。それが今日の箇所である。「あなたがた(異邦人)は、かつては神に不従順でしたが、今は彼ら(ユダヤ人)の不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼ら(ユダヤ人)も、今はあなたがた(異邦人)が受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身(ユダヤ人)も今憐れみを受けるためなのです」(30-31)。

 人は誰でも罪を犯したり、過ちを重ねたりする。そうでない人が一人でもいるだろうか? しかし、我々はその罪や過ちを、取り返しのつかない致命的なことと考えるべきではない。パウロは、そのことをここで語っているように思われる。

 ボンヘッファーは、ナチスが政権を奪取して暗黒の支配が始まってから10年経った時点で、「十年後」というエッセーを書いた。その中に、「歴史における神の支配に関する二、三の信仰箇条」という一文がある。彼はこう言う。「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生まれさせることができ、またそれを望まれるということを、私は信じる」。人間の罪や過ちは「取り返しがつかない」ものではない、と彼は信じたのである。人間には出来ないかもしれない。しかし、神はそれを善に転換させることが出来る。なんと深い慰めに満ちた洞察であろう!

 彼はさらにこう告白する。「私は、われわれの過失や誤りもまた空しくはならないということ、また、神にとってそのような過失や誤りを解決することは、われわれが善い行為であると考えていることを処理するよりもむずかしくはないということを信じる」。このことが信じられるとき、我々は生きることができる。逆に、罪や過ちは「取り返しがつかない」と考えるとき、人は将来を失うのである。

 パウロが今日の箇所で言っていることも、同じ意味ではないだろうか。ユダヤ人は不従順という罪に陥ったが、「だから駄目だ」と彼は言わない。それで「お終い」にはならない。むしろ、そのことをバネにして、かつて不従順であった異邦人に救いが及んだ。そして、逆にそのことが、やがてユダヤ人が救われることへとつながる。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(32)。これが「神の秘められた計画」なのである。

 それ故に、彼は次のような賛美の言葉でこの個所を締めくくる。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。…すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」(33)。

 我々も、これに声を合わせて「アーメン」と言いたい。



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