2004・2・1

「悔い改めに導く神の憐れみ」

村上 伸

エレミヤ書 40,1−5ローマ書2,1−16

 今日の箇所で、パウロは先ず「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(1)と言う。

 「あなた」とは誰のことか? ユダヤ人である。2章17節以下「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえている」とか、「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」(19-20)と言われていることからも、それは分かる。

 そのユダヤ人に対して、彼はさらに辛辣な問いを畳みかける。「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか」(21-22)。そして結論として、「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」(23)と言うのである。

 しかし、このような言葉は甚だ危険である。何故なら、それは「そういうお前はどうなのだ?」という形で必ず自分に跳ね返って来るからである。こういう言葉を発するパウロ自身も、この危険な問いの鋭い矛先を避けることは出来ない。

 だが、ここで我々は考えなければならない。パウロは自分のことを棚に上げて「ユダヤ人」一般を批判しているわけではない。言うまでもなく、パウロは生っ粋の、そして典型的なユダヤ人であった。フィリピ書3,5-6で、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」と言っている通りである。他人事のように気軽にユダヤ人批判を展開することなど、彼には出来る筈もなかった。

 「他人には教えながら、自分には教えない」とか、「律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」という言葉は誰よりも先ず自分に当てはまる。そのことを彼は知っていた。回心前、彼は「律法を誇りとして」いた。その彼が、主イエスの言葉によって、自分が律法を誇りながら、実は律法の中心である「愛」を無視していたということ、結局は他者を憎み・殺す道を歩んでいたということ、そのようにして、本当は律法を破り神を侮っていたということを、手厳しく知らされた。彼は大地に打ち倒されるような衝撃とともにこのことを認識したのであった。

 そのような経験を持つ人が、どうして自分を棚に上げて気軽にユダヤ人を批判することが出来るだろうか? もし我々がローマ書2章をそのように読むとすれば、それは致命的な間違いである。これは、何よりもパウロの「自己批判」の文章であり、「罪責告白」なのである。この点を、今日は先ず確認しておきたい。

 その上で、再び1節の言葉に戻ろう。「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」

 これは、イエスの「山上の説教」を想起させる。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7,1−2)。イエスはそれに、少し極端ではないかと思われるような比喩を付け加える。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(3)。そして、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(5)。これは、我々が今、真剣に聞かなければならない言葉だ。

 米英は昨年3月、イラク攻撃に踏み切る際に、この「危険なならず者国家が大量破壊兵器を保有している」ということを理由として挙げ、国連の合意がないまま戦争を始め、ミサイルやクラスター爆弾の雨を降らせて大勢の市民を巻き添えにした。危険なのはどちらだろうか? しかも、専門の調査チームがその後いくら調べても、大量破壊兵器は見つからない。だが、米国は既に半世紀以上も前からそれを大量に保有し、保有するだけではなく実際に広島と長崎に原爆を使ったのである。その後も核実験を繰り返している。他人の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中の丸太には気づかないということの実例である。危険なのはどちらだろうか?

 これは今に始まったことではない。1937年に日本軍が中国で戦争を始めたときも、先に発砲したのは中国軍だと難癖をつけ、「断固懲らしめる」と息巻いて全土に兵を進めたのであった。先に中国に大軍を送り込んで大規模な軍事演習を繰り返していたのは日本であるという反省は全くなかった。

 戦争もテロも、常に「自分を棚に上げて他者を裁く」ことによって始まる。歴史がこのことを示している。これはユダヤ人だけではなく人類の最大の罪であり、この罪を悔い改めようとしないすべての者に対して、パウロは「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」(3) 言っているのである。

 しかし、その後でパウロは慰め深い言葉を続ける。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(4)。我々は罪を犯す。しかし彼は、「だから駄目だ」と言わない。神の憐れみと慈愛と寛容と忍耐は、我々を罪の認識へ、率直な告白へ、そして心からの悔い改めへと導く。このことが決定的に重要であるということを、我々は知らなければならない。



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