2004・1・25

「悔い改めにふさわしい実」

村上 伸

イザヤ書 40,1−5ルカ福音書 3,7−14

洗礼者ヨハネについては、ルカ1章(5-25; 57-80)に詳しい紹介がある。父ザカリヤはアビヤの組の祭司、母エリサベトはアロン家の娘。ユダヤの由緒正しい家柄である。だが、この年老いた夫婦には子供がなかった。やがて不思議な経緯を経て子が生まれることになる。天使は、「その子をヨハネと名付けなさい」(13)と告げ、その生涯を次のように預言する。「エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備の出来た民を主のために用意する」(17)。これは、父ザカリヤの言葉とも符合する。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」(76-77)。主の道を整える先駆者。これがヨハネの生涯であった。

ルカ3章では、そのヨハネが預言通りイエスに先駆けてヨルダン川沿いの地方に姿を現す。「皇帝ティベリウスの治世の第15年」(1)というのは紀元28年頃に当たる。マルコによると、彼は、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べる」(マルコ1,6)など異様な風体をしていたらしいが、ルカはそのことには触れず、ただ、「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」 (3,3)とだけ書いている。だが、ヨハネの言葉にはよほど説得力があったのであろう。大勢の群衆が「洗礼を授けてもらおうとして出て来た」(7)

しかし、ヨハネが群集に対して語る言葉は厳しい。「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根本に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(7-9)

要するに、自分たちの誇りを出自や血統などに見出すことはやめなさい、ということである。今、我々の国では、子供たちに「愛国心」を、「民族としての誇り」を持たせるような教育をすべきだという声が強まりつつある。ある意味で理解できなくはないが、そのために「臭い物には蓋をする」ようなことになれば、問題である。「愛国心」や「誇り」は、自らの罪を誠実に認めるところから生まれるのである。

ヨハネが、「我々の父はアブラハムだ」などと誇るなと言うのは、その意味である。自らの罪を率直に認めて告白し、悔い改めにふさわしい実を結ぶこと。これを抜きにしては、真の人間形成も国家の正しい成長も不可能である。

さて、話を今日のテキストに戻そう。ヨハネの言葉が余りに厳しかったので、群衆は不安になったらしい。「では、わたしたちはどうすればよいのですか」(10)と尋ねた。これに対してヨハネは、極めて簡潔に答えた。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(11)。これは、高尚だが実行不可能な「理想論」ではない。日常生活の中の小さな行為、つまり、群衆にも出来ることを示したのであった。

徴税人に対してもヨハネは同じように、「規定以上のものは取り立てるな」(13)と答えた。徴税人が規定以上のものを取り立てることは、当時、半ば公然と行われていた悪しき習慣である。だが、これも止めようと思えば止められる。ザアカイは断然止めたではないか(ルカ19,8)

最後に兵士が尋ねた。「このわたしたちはどうすればよいのですか」(14)。ヨハネの答えは前と同じように実行可能な、具体的な指示である。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」(14)

ここで特に「兵士」の問題に注目したい。その頃の兵士は、碌な給料も貰っていなかった。「塩」が給料の代わりになることもあり、それが「ソルジャー」の語源といわれる。だから、兵士たちが一般民衆から金をゆすり取ったり、だまし取ったりすることは珍しくなかった。戦争に行くと、指揮官は「略奪・暴行は思いのまま」と許可を与えて兵士たちの士気を奮い立たせようとした。今は、さすがにこういうことは少なくなったが、全くなくなったわけではない。

今、『朝日新聞』に「11歳の少女兵」という記事が連載されている。シェラレオネ内戦後の現地報告だが、10歳ぐらいの子供たちが男女を問わず連行され、自動小銃を持たされて戦闘の第一線に送り込まれる。敵だけでなく一般民衆を殺し、略奪の限りを尽くし、捕虜の手首を切り落とす。命じられるままにこうした残虐行為をする。おぞましい話だ。兵士たちは武器を持っているから、その気になれば何でも出来る。だからヨハネは、彼らの力を最小限に抑えようとしたのである。

だが、それに勝るおぞましい「悪」は、大量殺人兵器の開発・生産・使用である。広島・長崎では実際にそれが使われ、それに類したことはその後も跡を絶たない。世界には、このような「悪」の存在を「仕方がない」と諦める風潮が強い。そして、政治家たちは開き直る。彼らは「必要悪」という言い方で「悪」を正当化する。これも、「悪」である。

だが、我々は「仕方がない」と諦めてはならない。「必要悪」と言ってそれを正当化してもならない。ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実」を結ぶことは決して不可能ではないということを示した。その意味で、単純に「悪」を禁じ、「善」を勧めたのである。この単純さに注目することが、現代では特に必要なのではないか。



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