2002年6月9日(日)礼拝後
日本基督教団 代々木上原教会礼拝堂
『アフガニスタン 家族からの伝言』 |
講演者:後藤健二さん(映像ジャーナリスト/インデペンデント・プレス)
ゲスト:勝間 靖さん (ユニセフ プログラム・コーディネーター)
去る6月9日(日)の主日礼拝後、かねてより切望していた、後藤健二さんのアフガニスタン報告会が実現しました。 午前中の礼拝は〈家族礼拝〉でした。「家族」という主題につなげて、後藤さんのアフガニスタンでの貴重な取材の中から、テロやアメリカ軍の空爆に翻弄される人々の生活にスポットを当てて、報告を行っていただきました。 以下は、後藤さんによる報告の骨子を、ビデオ映像の紹介も合わせてまとめたものです。
テロ直後 ――― パキスタンに逃れる難民の実情
国内難民の人々の生活 2001年9月、同時多発テロの直後に、後藤さんは現地に向かいました。当時アフガニスタンを実効支配していたイスラム原理主義勢力タリバンは、外国人の入国を厳しく制限して、ジャーナリストにも入国ビザがおりませんでした。このため、まずは隣国パキスタンの国境の町クエッタで取材を行いました。
テロの3日後にアフガン北部のマザリシャリフからクエッタへ、約1000キロの道のりをバスで逃げてきた難民たちに、後藤さんはビデオカメラを向けました。
アメリカ軍の空爆を恐れて、家と土地を故郷に残し、持てるものはすべて持って逃げ出してきた人たち。当時、アフガニスタン周辺国は国境を封鎖していました。彼らは国境の検問所を避けて、不法にパキスタンに入国してきたのです。
その難民たちのキャンプ地の一つである、ニューマジャルの難民キャンプには、当時19家族、計78人の人々が暮らしていました。
若い人たちは、故郷でタリバンの命令により徴用されてしまったため、老人、女性、子どもたちが中心の生活です。食事は、わずかに貯えている小麦を水で溶いたチャパティが一日一回ほど。
彼らの使用しているUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のロゴ入りのテントは、町の市場で買ってきたのだそうです。テントは以前にアフガン国内で支給されたものでした。いったん支給されたものを10日ほどで市場に売りさばき、お金に換えて暮らすアフガンの生活。一方で、それを買う難民たち。
キャンプ内では、女性たちが糸をつむいでは換金していますが、パキスタンではその収入が、一日わずか15円(7ルピー)にしかなりません。
子どもたちは、少しでも生活の足しにしようと、町のゴミを拾い集めて売っています。
このキャンプの最年長である42歳の男性は、どうにかしなければとキャンプ地を離れて、日雇い労働で収入を得ようとしますが、その収入も十分というにはほど遠い金額です。
彼らの多くは、アフガニスタン国内では普通の(中流以上の)暮らしをしていました。土地も家も持っていた市民が、その資財をすべて使い果たしてまで、なぜ隣国パキスタンのクエッタという町を目指して逃げてくるのでしょうか? その答えを探る鍵として、後藤さんは、ある一人の難民の生活をビデオで紹介します。
20年以上も、隠れ難民としてパキスタン国内で暮らすアリさんは、1979年、ソビエト軍のアフガニスタン侵攻をカブールで体験しました。
当時のカブールは、町全体がまるで刑務所のようで、自分の意見を口に出すことはできない世界だったと、アリさんは回顧しています。
「社会主義とは、食事を与え、言論の自由を奪うものだ」と言うアリさん。
社会主義政権に不信感を持ったアリさんは、義勇兵となり、反社会主義の旗のもとに戦いますが、やがて、アメリカなどの支援を受けた義勇軍のあり方に対しても疑問を抱くようになります。
「自国のために戦うのでなく、他国のために戦っているようなものではないのか?」と。
その後、家族を連れてパキスタンに逃れました。難民とわかると、賃金の安い仕事しか見つからないために、パキスタン人と身分を偽って生活してきました。
1989年、ソビエト軍が撤退した後、アフガン国内の武装勢力らによる内戦が勃発。
1996年にはイスラム原理主義勢力タリバンが国土のほとんどをおさえ、「アフガニスタンはパシュトゥーン人のもの」というスローガンのもとに、他民族への迫害を強めます。
そのため、ハザラ人のアリさんは、帰るチャンスを今まで見つけることができなかったのです。
パキスタン国内では、難民の子どもたちは、国籍がないために十分な教育が受けられません。
アリさんは、故郷に帰ってアフガニスタンの再建のために人生を捧げたいと願っていますが、その夢は未だかなえられていません。
全国的な復興の推進にあたっての、さまざまな課題 国外には、推定400万人ともいわれる難民がいる一方で、外に逃げることもできなかった人々は、いったいどのような生活をしているのでしょうか。
昨年10月、後藤さんはアフガニスタン国内に入り、国内に留まっている人々の様子を取材しました。
カブール市内では、2万人以上の人々がアメリカ軍の空爆で家を失い、厳しい冬に備えて国連などによる緊急の援助を必要としていました。
そんな状況の中、後藤さんは、グルマカイさんという未亡人の家族の生活をビデオに収めました。
グルマカイさん一家の住んでいた住宅区は、10月下旬、アメリカ軍の空爆に遭い、3軒の民家が破壊され9人の死者を出しました。
彼女の一家は、崩れた瓦礫の下からかろうじて逃げ出しますが、一家の大黒柱だった当時20歳の長男は命を落としてしまいます。
それ以来、10歳になる長女のマリアムちゃんは、3歳の妹を自分のそばから片時も離そうとしなくなりました。
一家は、とりあえず隣家に身を寄せることができました。しかし、これからどう生計を立てていくのかという重い課題が若干15歳の次男の肩にのしかかっています。
2人の妹と母親を抱えてどうやって暮らしていくのか、学校もあきらめるしかないのか・・・。
突然降りかかってきた責任の重さに、次男はとまどうばかりです。
今年3月に再び後藤さんがこの家族を取材したときにも、次男は依然仕事ができない状態にありました。職探しが困難というよりも、精神的なプレッシャーで「仕事なんか見つけられるわけがない」と、どうやら頑なになっているようです。
自由な雰囲気の中、復興の活気があふれ始めたカブールの町。
しかし、そこには、いまだに内外の傷が癒えず、さらにその後の生活の重荷がのしかかって、前に進むことができない人々も大勢いるのです。
ユニセフのアフガニスタン復興支援活動 アフガニスタン国内で、「復興」がまがりなりにも進んでいるのは、首都カブールだけと言っても過言ではありません。
3月以降も、アフガニスタンの軍事行動が続いているため、全国規模で「復興」を立ち上げるための支援が行えない状態にあります。
かつてタリバンの本拠地だった南部の都市カンダハルでは、タリバン時代に比べると、活気が出てきています。ここには現在4000人以上のアメリカ兵が駐留しています。アメリカ軍は各地を巡回してまわり、信頼を得るために住民と対話し、子どもたちにお菓子を配ることもあります。
しかし、彼らの目的はあくまでもタリバンやアルカイダの残党探しです。復興支援ではありません。軍事作戦が続けられている間、安全上の問題から、国連や民間の人道支援活動を始めることができません。住民は夜間外出禁止令などの制限を受けています。今は、アメリカ軍の圧倒的な軍事力の前に、武装勢力たちもおとなしくしていますが、そのアメリカ軍が去った後、誰がどうやって治安を保っていくのかという課題が残ります。これが解決されない限り、アフガニスタンの真の復興は始まらないと言えるでしょう。
今後は、周辺国に逃れた難民の帰還も視野に入れることが必要です。
現在、WFP(世界食糧計画)では、援助資金が底をついてきて、小麦の配給量も三分の一に減らさなければならなくなりました。課題はまだまだ山積みです。
テロ事件以前から、アフガニスタンでは深刻な干ばつが4年間続いて、国内をさまよう難民の数が増え続けていました。
こうした人たちが、自分たちの村に帰って再び農作業を営めるように支援することも、大きな課題の一つです。そのための環境作り、まずは国内至るところに埋められている地雷を取り除くことや治安を安定させること、そして内戦と干ばつで破壊された灌漑設備などの復旧が急務です。病院や学校などの公共施設も整えていかなければなりません。
ファイザバードという町では、市中に大きな川が流れているにもかかわらず、地元は干ばつに苦しんでいる、というような地域もあります。
一方、たとえばカンダハルの隣町ヘルマンドでは、灌漑設備が整っているため、農業が盛んであるといったような小さな成功例も国内にはいくつもあるのです。
このような成功例をアフガン各地に広げていくためのプログラムが進められています。
ひとつひとつの規模は小さくても、手から手へ、口伝えで広めていきながら成功例を増やしていく、そのための支援を現在続けています。
私たちが具体的な協力を行うためには? 今回、ゲストとして、後藤さんの友人である勝間靖さんのお話も伺うことができました。
勝間さんは、ユニセフ職員として2000年5月以来、アフガニスタンで、保健・衛生・子どものための活動を行ってこられました。
- 女性の地位の向上をめざして
勝間さんによれば、タリバン政権下での良いところをあえて挙げるならば、治安が良かったこと、けしの実の栽培を禁止したこと、の2点だそうです。
逆にマイナス面の最たるものとして、勝間さんは、女性の社会的地位の低下の問題を指摘します。
タリバン政権下では、女性はブルカをかぶらなければ外出できませんでした。そればかりか、村を一歩でも出る場合には、親族の男性が同伴しなければならないという規則もありました。ブルカは、一般市民にとっては高価なものなので、たいていの家では、一家に一着しかないブルカを交代に着て外出しているとのことです。
もちろん女子教育は禁止、女性の就職も禁止。かつて、小学校の教師は女性が7割を占めていたそうですが、タリバン時代には、すべての女性は職を失ってしまいました。
今後は、経済・教育面で、女性の育成と社会進出を促進していく必要があります。
しかし、女性の人権問題への取り組みに際して、勝間さんは次のように述べます。
「(アフガニスタンの文化・慣習などを)外部から見て、良い悪いと価値判断するのは易しいのですが、最終的には、アフガン内部の女性が決めていくべきことです。外部からの援助者は、〈黒子〉に徹することが大切なのだと考えています」
- 初等教育の再建・普及
ユニセフとしては、なによりもまず子どもたちの教育を再建することが急務と考え、「バック・トゥ・スクール(学校へ戻ろう)・キャンペーン」と題するプロジェクトを進行中です。
今年3月に、カブール市内で女子の小学校が再開されたとき、ユニセフの予想をはるかに上回る数の子どもたちが殺到したため、狭い校舎からあふれてしまい、ユニセフから支給されていたノートとペンも、十分に行き渡らないという事態が起こりました。
ユニセフでは、今年推定440万人の子どもが学齢期にあり、そのうち3月の始業式には、180万人ほどが入学を希望するだろうと予測していました。
しかし実際には、その予測をはるかに超えた人数が集まってきたのです。
教育に対する国民の熱意のほどが、この一件にもよく表れています。
タリバン時代は、表面的には女子教育は行われませんでしたが、水面下では大規模な「ホームスクール」― 元教師の自宅で、ひそかに教育活動を行うもの ― が実施されており、教育に対する草の根運動は、タリバン時代も10万人規模で脈々と続いていたのです。
その基盤があるからこそ、タリバン崩壊後、教育を求める声が一気に高まってきたのでしょう。
しかし、実際の学校運営を軌道に乗せ、毎日きちんと授業を行なえるようにするのは容易なことではありません。
教育の復興計画については、現在は初等教育に焦点をあてています。
第一期として、440万人の学齢期の子どものうち、200万人を学校に戻すことが急務です。さらに次の段階では、残りの子どもたちを学校に入れ、中等教育にも力を入れていかなければなりません。
同時に、教師の養成と教育プログラム、教科書の作成なども必要です。3月時点で、すでに8万人の教員の養成が始まっています。教科書の作成も、それぞれの民族の言語に配慮しながら進められています。
このような取り組みを支えているのは、「子どもたちの教育は"未来への切符"である」と考えている大人たちの教育熱です。現在はいわば"教育ブーム"といった状況にありますが、これを継続させていくことが大切なのです。
おわりに 最後に、私たち日本人が、国内で具体的な協力を行うためにできることを、後藤さん、勝間さんのお二人にアドバイスしていただきました。
アフガニスタンの復興のために、日本国内での募金、寄付、ODA援助などは、現地の人々の支援として非常に有効な手段だそうです。
たとえばODAの場合、お茶の水女子大、奈良女子大など日本の大学が、アフガンの女性教員を招いて研修をするというプロジェクトを始めています。そういった試みに参加していく方法もあります。
もう一つ私たちができる身近で有効な手段として、メディア参加、つまりメディアに対してアピールしていく方法があります。現在ほとんど報道されなくなったアフガニスタンに関する正確な情報を、もっとリアルタイムで提供していくよう、繰り返しメディアに訴えかけていくことが大切です。
「人々の声に動かされるのが、本来のメディアであるべきだと、私は思います」と後藤さん。
電話を一本かける、はがきや手紙を送る。このような小さな行為でも、メディアを動かす原動力となり得るのだそうです。
一時間以上にわたる講演会は、じつに内容の濃いものでした。
アフガニスタンについては、『ロヤ・ジルガ』(国民大会議)の報道とともに、新聞やニュースで久しぶりに国内の情勢を知る機会を得ていますが、ニュースで取り上げられない側面、特に子どもや女性の人権・教育問題、地方都市の復興の課題について、今後も常に正しい情報を求め、それを判断の基準としつつ私たちにできる支援を行っていくことが必要だと感じました。
最後に、勝間さんがお話した、あるアフガニスタン女性の声を紹介します。
「女性のことや権利について、みなさんは考えてくれなくてもいいのです。それよりも私たちの子どものことを考えてほしい」
「私たちはブルカを恐れません。へジャブ(スカーフ)やブルカをかぶっていても、人生は続きます。しかし、教育なしには人生は続かないのです」