2021.10.10

音声を聞く

「おい、迷ったら基本に戻れ」

吉川拓実

エゼキエル書33:1〜6マタイによる福音書10:34〜39

 この度、お招きいただきました農村伝道神学校2年生の吉川拓実と申します。今日はどうぞよろしくお願い致します。

 さて、本日は私の入学経緯と学校生活のお話をさせていただこうかと思います。私は出身が大阪でありまして、高校を中退いたしました。そこから調理師としてホテル、旅館、料理屋であわせて3年ほど仕事をし、酒、たばこ、ギャンブル、風俗遊びにけじめをつけたいと思い、寺や神社に行きましたが人に会わずじまいだったので、最後に教会へ向かいました。そこで、礼拝堂で一人座っていると、不思議と気持ちが楽になった感じがしました。

 その後、聖書の学びや教会の人々とのかかわりの中で、洗礼に至りました。牧師へのあこがれから神学校へ入学しました。ここで私がイエスの言葉に触れた経験をお話しします。あるユースキャンプに参加した時のことです。そこで鐵口宗久さんに出会いました。その方は長崎県にある鎮西学院高校の宗教主事でして、キャンプ最終日での振り返りの中で私の洗礼までの経緯をお話ししました。すると、「君の選択は間違っていないよ」と仰ってくださったのです。これは今でも私の心の支えになっています。

 この説教テーマに偉そうなことを書かせていただきましたが、これは私の支えになっている言葉であります。それは何かと申しますと、調理師時代にだし巻き卵を巻いていたときに先輩から言われた言葉です。仕事の量があまりに多く、粗雑な仕事をしているときでした。だし巻きも少し手抜きで、本来のやり方とはちがうずぼらな仕方でしていると、「おい!」という罵声が聞こえました。何かと見てみますと鬼の形相でこちらを見ている先輩がいました。これは怒られると思ったのですが、近づいてくるなり、こういいました。「えぇか、忙しいのは分かるし、しゃーない。やけどな、そんなやり方しとったら、お前、変な癖つくで。それで基本忘れたまま“自己流”でやってたら、迷ったときに困るわ。結局どんな時でも基本が一番早くてきれいにできる」。

 私はこれを聞いて、あぁ、なるほどと思いました。というのも、この先輩は前からずっと基本、基本というのが口癖で、破ったりしたときにはその仕事をさせてもらえなくなることがよくありました。でも、このだし巻きの一件でようやく先輩が言っていた“基本”を守る理由がよく分かりました。

 さて聖書の話に入りましょう。今回、新約聖書ではマタイによる福音書10:34-39を取り上げました。読んでみると、かなり怖い箇所であります。34節から39節

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 この提示した箇所一帯があまり我々には受け入れにくい表現を使っています。というのも「自分の家族の者が敵となる」というのはイエス自身の葛藤から生まれたものだと思います。およそ父親であるヨセフが先に亡くなっており、一家の大黒柱であった彼は洗礼者ヨハネの洗礼を受けるためにヨルダン川へ出向き、家族は基本的にほったらかしです。

 さらに、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」というのは、おおよそ当時の社会で富をむさぼっている富裕層への批判と、彼が宣教した“神の国”によって被抑圧化にあった人たちが解放されるという意味合いでしょう。また、並行箇所としてルカによる福音書にも書かれていますが(ルカ12:51-5314:26,27)、ルカの場合はいろいろとその本旨に沿った二次的内容の資料に組み込まれています。

 ルカもマタイも同じ資料、いわゆるQ資料からとって編纂時に組み替えたといった見方が主流であります。もちろん、たまたま同じ資料を別々に用いたというのもないわけではないでしょうが、可能性は低いでしょう。ともかく私はここでイエスが何を求めているのかに耳を傾けることが重要だと思われます。

 旧約聖書の箇所に参りましょう。エゼキエル書33章1-6であります。1節から6節まで

主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。彼は角笛の音を聞いていても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。

 ここで「人の子」というのはエゼキエルの事であります。この箇所は預言者の見張りの役割(エゼキエル3:16-21参照)を示しています。ざっとエゼキエルさんを紹介しますと、紀元前598年に始まったバビロン捕囚の初期の大預言者であり、祭司の子ども(1:1-3および3:15)でありました。それゆえに、彼は前598年、エルサレムが占領されたのち、上流階級の人物として(列王記下24:14参照)、いわゆる「最初の連行」の行列に加わってバビロンに捕囚されました。彼はバビロンに近いケバル川のほとりで捕囚民と暮らしたそうです。

 また、彼は妻を亡くしています(エゼキエル24:15〜)。この聖書箇所、本当は33章丸々提示したかったのですが、長すぎたのでやめました。というのも、エゼキエル書の要点が詰まっている章だからであります。預言者は特に神の召しを受けて、民に警告を発する立場でありますから、神のもとに帰りなさいと強く叫んでいます。

 エゼキエル書33章をもう少し読み進めますと、11節

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

 と、こう言っています。旧約聖書は業火や剣など恐ろしい言葉がよく登場してきますが、11節のような深みのある部分があることを忘れてはなりません。

 もう一度新約聖書に戻りましょう。なぜイエスは“平和ではなく剣を”もたらすためにこの世に来たのでしょうか。先ほどのエゼキエル書にも出てきましたが、“剣”は旧約聖書の禍の預言特有の表象として出てきます。この事も踏まえて提案なのですが、これを逆にしてみたらどうでしょうか。イエスは“剣ではなく平和を”もたらすために来たと、こう読むとどうでしょうか。たしかに聞こえはよくなりました。ですが、イエスはどうも聞き手を困惑させる発言を用います。

 昨今の世界でも争いはたえず行われ続けています。イスラエル・パレスチナ問題もその一つであります。イスラエルと仲良くすることで利益を得られる国はパレスチナを国と認めず、その逆も然りです。皮肉にも世界最大のキリスト教国家アメリカは前者の筆頭であることを忘れてはならないでしょう。とどのつまり、読む人それぞれにイエスの言葉との対話が必要であります。実際、私はイエスの「平和ではなく剣を」という言葉に振り回されています。

 先日、アジアの農村指導者育成を行うアジア学院(栃木県那須塩原市)へ二泊三日の研修に参加したのですが、貴重な経験を致しました。学院内では英語だけで会話を、畑作業は午前6時半から、Wi-Fiは夜の自由時間しか使えないうえに、スマホは圏外であります。私にはとても不便に感じられました。ですが雨の中を農作業しながらアジア学院の生活の営みに関わっていきますと、旧約聖書のイザヤ書2:4-5の言葉が浮かんできました。

 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」とあるわけです。イエスは山上の説教の中で、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と言ったり、「剣をさやに納めなさい」(マタイ26:52ヨハネ18:11)とも言うのです。

 ここまで話してきましたが、私が言いたいのは一つだけです。“迷ったら基本へ”。私たちは聖書こそが基本なのではないでしょうか。たとえ聖書の言葉が受け入れられなくても、それはわたしたちの大切な神の言葉であります。もちろん聖書の中には差別的語句があふれていますし、容易に受け取ってはいけないものも多いです。新約聖書、また旧約聖書の中には何か深い意味が込められている様に思います。迷うこともたくさんある中で、私はキリスト教の“基本”と呼ばれる聖書を読み深めていきたいと思います。

 神学生として聖書との対話をしていきます。そうすることで得られるもの、また失うものを通して、神の語り掛けに気づき、神と自分との関係がいよいよ築きあがっていくと思うからです。やはり、“分からない”を大切にしたいのです。自分の思いを正当化するために聖書を解釈してしまうのではなく、神が何を語りかけておられるのかを求めて、いつもそこに戻りたいのです。お祈りいたします。

祈り:
天におられる私たちの神さま、今、世界ではコロナウイルスの脅威が私たちの身心ともを蝕み、人々の生活を苦しめています。イエスがおっしゃられた一つ一つの言葉が本当の意味での救いの言葉となりますように。たとえ聖書の言葉が受け入れられなくても、私たちはイエスの存在そのものから学ばされています。剣をもたらす神であったとしても、私たちはイエスを通して祈り続けていきます。基本となる信仰の力によって、また、日々の満たされるものによって、生かされていることをどうか今一度感謝できますように。頼りなく、か弱い私たちをお導き下さい。この場にいる一人一人の祈りとここに集えない一人一人の祈りにあわせて、主イエス・キリストの御名において御前にお捧げ致します。 アーメン

派遣と祝福:
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように、今、そして明日も。


 
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