2021.08.08

音声を聞く

「心をひらいて」

中村吉基

列王記上19:4〜8ヨハネによる福音書6:41〜51

 主イエスは今日の箇所で「わたしは天から降(くだ)って来たパンである」と言われました。主イエスが今、皆さんの目の前に立って「わたしは命のパンである」「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と言われたならばそれを素直に受け入れる心の準備があるでしょうか。

 イエスがよく言われた言葉のひとつは「わたしにつまずかない者は幸いである」(マタイ11:6他)というものでした。主イエスが人々にお話しになったことをめぐって、人々がどう信じてよいのか、また動揺することをよくご存知であったからこそ、このような言葉をお話しになったのでした。主イエスの言葉には人間の知恵では計り知れないものや常識を超えた言葉がしばしば語られます。私たちもそうです。ずっと前から思い込んでいること、当たり前だと思っていることなどが覆される言葉を聞いた時、私たちは自分の耳を疑います。即座にそれを信じることができないのです。

 主イエスは今日私たちにも「わたしにつまずかない者は幸いである」と仰せになります。

 けれども今日の箇所に出てくるユダヤ人たちもイエスの言葉に大きくつまずきました。主イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と聞くや否やとまどい、混乱したのです。イエスはあの大工のヨセフの子であり、ナザレの平凡な村人のはずだ、と。

 思い返してみれば主イエスの生涯は、家畜小屋の飼い葉桶の中で生まれてから十字架で殺されるまで、貧しい人間の姿としての歩みでした。これが本当に神の子なのか、と思ってしまう暗いです。ある時イエスは荒れ野でサタンの誘惑を受けました。その時にも超能力や奇跡を起こすようなことはありませんでした。つまりそういうものを見せ付けて人の気を引くようなことはなかったのです。しかし、主イエスが奇跡を行い、病を癒した場面が聖書に記されています。それはいつでも差別された人たちを仲間に加え、困っている人を助ける時にだけ、そうされたのです。しかもいくつかの場面ではそのような奇跡を主イエスが行ったことを誰にも話さないようにと口止めをしていることさえあるのです。

 「たったひとつの生涯」というイエスの一生をうたった詩があります(作者不明)。

彼は、世に知られぬ小さな村のユダヤの人の家に生まれた。
母親は、貧しい田舎の人であった。
彼が育ったところも、世に知られぬ別の小さな村であった。
彼は30才になるまで大工として働いた。
それから、旅から旅の説教者として3年を過ごした。
一冊の本も書かず、自分の事務所も持たず、自分の家も持っていなかった。
彼は、自分の生まれた村から200マイル以上出たことはなく、
偉人と言われる有名人にはつきものの「業績」を残したこともなかった。
彼は、人に見せる紹介状を持たず、自分を見てもらうことがただひとつの頼りであった。
彼は、旅をしてまわり、病人をいやし、足の不自由な人を歩かせ、盲人の目を開き、神の愛を説いた。
ほどなく、この世の権力者たちは彼に敵対しはじめ、世間もそれに同調した。
彼の友人たちは、みな逃げ去った。
彼は裏切られ、敵の手に渡され、裁判にかけられ、ののしられ、唾をかけられ、殴られ、引きずり回された。
彼は十字架に釘づけにされ、二人の犯罪人の間に、その十字架は立てられた。
彼がまさに死につつある時、処刑者たちは彼の地上における唯一の財産、すなわち彼の上着をくじで引いていた。
彼が死ぬと、その死体は十字架から下ろされ、借り物の墓に横たえられた。
ある友人からの、せめてものはなむけであった。

長い19の世紀が過ぎていった。
今日、彼は、人間の歴史の中心であり、前進する人類の先頭に立っている。
「かつて進軍したすべての軍隊と、かつて組織されたすべての海軍、かつて開催されたすべての議会と、かつて権力を振るいながら統治したすべての王様たちの影響力のすべてを合わせて一つにしても、人類の生活に与えた影響、人々のいのちに与えた影響の偉大さにおいて、あの『ひとりの孤独な生涯』には到底及びもつかなかった。」と言っても決して誤りではないだろう。
(関根一夫訳)

 私たちの目から見れば、イエスはごくごく普通の人間です。主イエスを人間という側面で見れば、言っていることは人間の常識に外れていて、異常に見えるだけです。しかし、主イエスの中には神の働きが生きているのです。43節を見てください。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」。私たちと主イエスが結ばれるために神が手を差し伸べてくださるのです。

 ここで「引き寄せる」(ヘルコー)という言葉は乗り物とか大きな岩とか、重いものを引っ張る時に使われる言葉です。このヨハネによる福音書の最後の章21章には復活の主が弟子たちに大漁のしるしを示されたことが記録されていますが、そこに「彼らは網を下ろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」と記されています。その「引き上げる」という言葉がここに使われる「引き寄せる」という言葉と同じなのです。つまり、神が力一杯に引き寄せてくださらないかぎり、人は主イエスのもとに来ることはできないのです。この言葉ひとつから考えてみると、神は私たちが主イエスと出会い、信じるようになるように導かれるのは簡単なことではない、ということです。それは私たちの心が頑なだからです。神が私たちを主イエスのもとに引き寄せるのはたいへん「重労働」なのです。私たちが常識の世界に囚われれば囚われるほど、そこから這い上がるのは難しいのです。それだけではなく余計な自信などあれば、なおさら動かないでしょう。もしも私たちの心が石のように硬ければ、神がいくら主イエスに引き寄せようとしても微動だにしないかもしれないのです。そこにイエス・キリストとの出会いが生まれるわけもないのです。

 主イエスはある時こう言われました。

はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)。

 小さな子どもの心のように真っ白になって神、主イエスの言葉に耳を傾ける者に神は祝福をくださいます。

 私たちの心はいつの間にか心を閉ざしがちになってはいないでしょうか? でも私たちは知っています。私たちが相手に心を開く時、心配していたことは消え失せ、その関係はよりスムースになるものです。これは人に対してだけではありません。私たちは主イエスに対して心をひらいているでしょうか。神の愛に心をひらいて、神の力に引き寄せられてイエスに近づくことができるのです。私たちは主イエスを本当の「いのちのパン」として信じて受け入れ、主イエスのみ言葉を私たちの日ごとの食物として生きるならば、「その人は永遠に生きる」(51節)のです。

 今日私たち教会にまた新たな信仰の仲間が与えられました。ただいまから入会式を行います。私たちはイエスに心をひらいて神に引き寄せられた者たちの群です。ともに励まし合いながらキリストの愛の通った教会を一人一人が形作っていきましょう。


 
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